封じられぬ川
夏の渡し場の水は、嘘のように澄んでいた。澄みすぎている、と思うべきであった。
リンは谷川のふちに立ち、その澄みかたを見ていた。底の小石まで透け、陽が川面で砕けて白く跳ねる。村の北の井戸は、汲み上げれば濁り、鉄の匂いがした。あの井戸は封じられた。死なぬために、封じられた。ゆえにこれほど澄んだ水を、リンは生まれて初めて目にする心地がした。
きれいな水ほど、信じるな。
それが、領の作法であった。マレナに言われた。クレフさまに言われた。きれいに見える水ほど、上から何が流れてくるか知れぬ。煮立て、冷まし、それから飲め。腰に下げているのは剣ではない。塩と蜂蜜を溶く小さな匙と、布をかぶせた水袋である。これを戦場でも手放すなと、幾度も言い含められてきた。剣のほうは、隊にひとつ二つしか回ってこない。槍を握る者のほうが、ずっと多かった。
「飲むなよ」と、リンは隣の男に言った。テム家の倅で、リンより二つ上のガレという。「沸かしてない。生のまま飲むなよ」
「分かってるって」ガレは笑った。乾いた笑いだった。「お前、母ちゃんみてえだな」
リンは答えなかった。母のようだと言われて、悪い気はしなかった。母も妹も、村に置いてきた。妹のニカは八つで、リンが出立する朝、戸口の柱にしがみついて離れなかった。だから約束をした。土産話を持って帰る、と。国境の山がどれほど高かったか、川がどれほど澄んでいたか、対岸の旗にどんな絵が描いてあったか。ことごとく数えて、帰って話してやる、と。
リンは、数えはじめていた。
国境の山は、村から見える里山の三つ分ほど高い。これがひとつ。川は、村の小川より十倍は広い。これがふたつ。
「水場から離れろ!」
下士の声が、谷を裂いた。古参の、肩のいかつい男だった。「上流に何が流れてんだか分かったもんじゃねえ。沸かしてから飲め」――そこで、声が詰まった。「……薪が、もうねえ」
隊がざわめいた。
薪は、出立の折に背負ってきた分しかなかった。山道を半月、雨に降られ、泥に足を取られながら来た。濡れた薪は燃えにくく、燃やせば減る。気づけば、火を起こすに足る乾いた薪は、ほとんど残っていなかった。
「夜まで我慢しろ」と下士は怒鳴った。怒鳴ることで、おのれにも言い聞かせているようだった。「補給が来る。南の水の樽も、薪も、領から来る。それまで、生水だけは飲むな」
リンは、谷川の澄んだ面を見た。
喉が、鳴った。
朝から、腹に何も入れていなかった。乾いた麦の粉を水で練って食う――その水を、沸かせない。リンは、おのれが腹を空かせ、喉を渇かせ、この国境にぼんやりと立っていることに、いまさら気づいた。
土産話を、みっつめまで数えたかった。けれど、みっつめが出てこなかった。
「リン」とガレが、声をひそめた。「あれ、見ろよ」
対岸だった。
谷川の向こう岸、なだらかな丘の上に、旗が立っていた。風に張り、紋が見えた。剣でも、獣でもない。輪の中に、何か――星のような、陽のような、放射の形。
「アウロラだ」と、誰かが言った。
リンは、その旗を、よっつめに数えようとした。けれど数えるうちに、別のことに気づいた。
対岸の陣は、川から離れていた。
水場のすぐそばに陣を敷くのが常であろうに、アウロラの兵は川べりを避け、丘の中腹に固まっている。汲みに下りてくる者もいない。まるで、この澄んだ水を、わざと避けているかのように。
「あいつら」と、ガレが眉を寄せた。「なんでこっちの水場に、近づいてこねえんだ」
リンには、答えられなかった。
けれど、腰の匙と水袋に、手が触れた。封じられた井戸と、煮立てた南の水と、塩と蜂蜜の匙とで、村は死ななくなった。
対岸の敵は、川を避けている。
まるで、同じことを、覚えてしまったかのように。
*
クレフは、地図の上に線を引いていた。
領館の采配の卓には、国境までの道を描いた一枚と、もう一枚――生者の人口台帳から抜き書きした、出立した兵の名簿が広げられていた。名簿の上から三つめの行に、リンの名があった。リン。十六。ヨナ家。彼自身が、顔を見て、書いた名であった。
けれど今、クレフが指で追っているのは名ではない。荷駄だった。
「届いたのは、どこまでだ」と彼は訊いた。
書記のヤルトが、別の紙を覗き込んだ。「半分の谷――鷹の渡しまで、と。そこから先は、まだ」
「半分か」
クレフは、地図の上の道を、指でなぞった。領から国境まで、半月の山道。塩と、薪と、南の水を詰めた樽。それを運ぶ荷駄を、彼は台帳の頭数から割り出し、編んだ。誰の手を、何頭の馬を、どの順で。ことごとく数えて、組んだ。組んだはずであった。
「樽が」と、戻ってきた伝令が、息を切らして言った。「半分は、途中で。夏の暑さで、中の水が……腐っておりました。蓋を開けたら、もう、饐えた匂いが」
クレフは、線を引く手を止めた。
煮立てた水を樽に詰めて運ぶ。領の内では、それで人を死なせなかった。だが領の内の話であった。井戸から井戸まで、半日の道の話であった。半月の山道を、夏の陽に焼かれながら運べば、煮立てた水も、樽の中で腐る。それは、見落としではなかった。彼は、はじめから読んでいた。読んでいて、なお、半月の輸送でそれを間に合わせる手立てだけは、この大陸のどこを探しても、持てなかった。読めることと、間に合わせられることは、別であった。
「運ぶ手は」
「足りませぬ」とヤルトが言った。「馬は痩せ、人は山道で倒れ、半月の道のりに、補給の半分が……溶けて、なくなってございます」
クレフは、地図を見た。
塩は届かぬ。薪は尽きる。南の水は腐る。きれいに見える谷の水を、煮立てる火がなければ、彼らは生のまま飲むしかない。そして、戦場の水場は――
「上流に、何が流れているか」と、クレフは低く言った。誰に問うでもなかった。「死体だ。汚物だ。糞だ。領で封じた、北の井戸と、同じ条件だ」
ヤルトが、顔を上げた。
「ノルデンの井戸は、封じられた」とクレフは続けた。声に乱れはなかった。「人が、近づかぬようにした。だが、戦場の川は、封じられない。上流に陣を敷いた者が、何を流すか、こちらには止められない。封じようのない井戸の前に、私は、兵を立たせている」
そのとき、卓に、もう一枚の報せが置かれた。
国境の物見からであった。簡潔な、数行の報せ。――対岸のアウロラ、川べりを避け、丘に陣す。水場に兵を寄せず。井戸に手を出さず。
クレフは、その数行を、二度読んだ。
「敵将は」と彼は訊いた。「誰だ」
「グレゴールという将は、退いたと」ヤルトが答えた。「代わりに、レントという、若い士官が陣を率いていると。先の戦で、ノルデンの谷を見て回った者だ、と聞きました」
レント、と。聞き慣れぬその若い名だけが、川を避ける陣の報せとともに、卓の上に残った。




