第36話
戦うしかない。
足元には、動けないファイが縮こまっている。
他に敵の気配はない。
先手必勝。
右目を狙うか?
外したら?
そんな思考が、脳裏を駆け巡った。
岩熊は、プリメイシアに向かって歩を進めてきた。
(ここで槍の解放はできない……どうするか)
灼熱の力で戦えば、この森は火の海になる。
ファイを巻き込むのは確実だ。
仲間がいれば、連れて逃げることもできただろう。
そんなことを言っていても仕方がない。
何か案を考えろ。
(一度、草原に逃げるか?)
彼女はすでに笛を吹いていたことを思い出す。
仲間が近くまで来ているかもしれない。
マルークの魔法は魔物の硬い体毛に弾かれる。
バスチールも到底通じないだろう。
となったら、
「俺がやるしかねぇなぁ!」
プリメイシアは一直線に槍を突き出した。
穂先を岩熊の足関節めがけて全力で突き進む。
ここからは、戦闘能力以上の差はないと悟った。
自分が死ねばファイも死ぬ。
仲間が来る前に、全てを終わらせる。
その意思を、一撃に込めた。
カアアアアアン!
金属と岩が激突する、耳を劈くような衝撃音が森に響き渡った。
「硬えええええええ!」
握る手が滑るほどの反動。
槍がわずかに跳ね返り、彼女の腕全体を痺れさせる。
親熊のそれとは明らかに違っていた。
毛並みですら、密度が違う。
(もっと早くこいつの存在を察知できていれば。というよりあの時処理しきっていたら……)
そう反省が胸を刺すが、今はそんな暇はない。
プリメイシアは体勢を立て直し、二度、三度と槍を突き込んだ。
狙いは関節、足先、首筋。
どこも、厚い金属の門を突いているような手応え。
一方で、岩熊は攻撃してこない。
ただ、近づいてくるだけだった。
痛みを感じていないのか。
恐れることもないのか。
プリメイシアは何とか自身の間合いを確保しながら、後退した。
(こいつ……親を殺した俺を、ちゃんと認識してるのか? すぐに殺さず、いたぶるつもりか?)
岩熊が、彼女をじっと見据えていた。
左目の傷が、「覚えているぞ」と語りかけているようだった。
(こうなったら一時的に力を開放して)
そう思い始めた頃、声が聞こえてきた。
「プリメイシアー! 大丈夫ですかー!」
マルークの声だった。
その声に、岩熊は反応した。
あの時、戦場にいたのはプリメイシアだけではなかった。
マルークもいた。
そして「逃げない」と声を張り上げていた。
故に岩熊は覚えていたのだろう。
「こいつも敵だ」と。
岩熊は踵を返した。
声のした方へと、走る。
「ふざけるな! なぜ俺とやらない!」
プリメイシアも負けじと並走する。
仲間が来たのなら仕方がない。
(このままマルークを担いで草原まで出て、槍の力を開放する)
岩熊は速かった。
本気を出した四足獣、そして魔物。
侮ってはいけなかった。
大きく、硬く、速い。
力という名の塊が、プリメイシアを置き去りにしようとしていた。
「マルーク! 逃げろおおおおお!」
間に合わないと悟った。
視界の先にマルークが見える。
そしてその前に、岩熊が。
マルークは動きが止まった。
その睨みと巨大さに、何もできないと悟ったのだろう。
その時、岩熊は一瞬の隙を作った。
その学習能力の高さ。
人間と出会えば目を狙ってくる。
対峙するなら姿勢を上げろ。
そう傷つけられた親を見て学んでいたのだろう。
岩熊は必要もない状況で体を起こし、手を広げ、自身を大きく見せた。
プリメイシアはその間にマルークの前まで素早く割り込んで、思い切り蹴り飛ばした。
そしてその反動で振り返った。
その時、既に岩熊の右掌が自身の左肩に到達する直前だった。
接触。
その重量がのしかかる。
まだ若干宙に浮いている身で耐えられる訳もなく、地面に叩きつけられた。
凄まじい音が響き渡る。
マントのおかげで爪による裂傷はなかった。
宙にいたのも運が良かったのか、踏ん張らなかった分足や腰へのダメージもなかった。
それでもその重さと衝撃が体を完全に停止させた。
肩に強い痛みが走る。
頭は働いていたが、上下が分からなくなる。
辛うじて森の柔らかい土が体を沈め、死には到らなかっただけだった。
岩熊の息づかいが、すぐ近くで聞こえる。
そしてプリメイシアは首筋の違和感、さらには浮遊感を感じ、地面を転がされた。
仰向けの状態になり、首だけで岩熊を見た。
(何が起きた……俺は投げられたのか……岩熊に? 追撃は? 体は動くか?)
岩熊は恐らくマントを咥えて投げ飛ばしたのだろう。
食うのに邪魔だったのかもしれない。
しかし岩熊は、こちらに来る様子はなかった。
そのマントをただ嗅いでいた。
そのとき、プリメイシアは悟った。
「お前……右目も……見えてないのか」
右目が白く変色していた。
一人で生きていくうちに、弱っていったのだろう。
もしかしたら、傷つけた時の後遺症かもしれない。
戦場では小さな傷から病気が広がることもある。
(親の匂いだけを頼りに……ここまで来たんだな)
「グオオオオオオオオオオ!」
岩熊は立ち上がり、咆哮を上げた。
それは勝鬨ではなく、どこか悲しみと怒りの混ざった声に聞こえた。
そして地に足を付けると、マントを咥えたまま、森の奥へと消えていった。
残されたのは、静まり返った森と、倒れたプリメイシア、そして遠くから必死に近づいてくるマルークの悲鳴のような声だけだった。
プリメイシアは思考がぼやけていく中で、
「ああ……マント……自慢し損ねたな」
そう言って目を瞑ることにした。




