第13話
巨大な岩熊が、プリメイシアの間合いへと詰め寄ってきた。
彼女はまだ動かない。
単純な攻撃が通じない可能性を、すでに読み切っていたからだ。
(恐らくこいつは親個体。先ほどよりも硬いことを想定し、まずは突進に合わせて、目を直接薙いでカウンターを入れる)
可能な限り引き付ける。
息を止め、槍を低く構えたまま、足の裏で大地を強く踏みしめる。
岩熊は、それを直前で見越したかのように立ち上がった。
前肢を高く掲げ、巨体を二足歩行の姿勢に切り替える。
「お前……さっきの見てやがったな! ガキを囮にするたぁ、なんて野郎だ!」
顔が高所へと上がり、槍の届く範囲は残るものの、先ほどの子熊を相手にした感触から、ダメージが通りにくいと結論に至り、
「そこからできる攻撃は限られてるだろ!」
前足の関節を狙い、槍で突いた。
岩熊は避けない。
この速度に反応ができていなかった。
穂先が体に激突する。
体毛に触れると金属音が響き渡り、槍がわずかにずらされる。
(なんだこの毛……異常な硬さだ)
皮膚に当たるが、衝撃が分散し、刺さりもしなかった。
その瞬間、岩熊の右腕が振り下ろされた。
巨大な爪が彼女を襲う。
プリメイシアは後ろへ大きく飛び退いた。
同時に槍を毛から抜き、横払いに岩熊の顔を叩いてみた。
効果はなさそうだった。
「マルーク! お前だけでも逃げろ! こいつは俺が何とかする!」
「嫌です! 僕にできることがあればやらせてください!」
プリメイシアは振り向かなかったが、少年の声は震えているのを感じ取った。
彼は逃げる気は微塵もなかった。
「分かったよ! ならそこで見てろ! 巻き込まれても文句言うなよ!」
(もうこの力を使うことになるとはな)
彼女は槍を握りしめた。
そして心の中で「殺意」で満たした。
それを心から体、体から手になじませていく。
この槍を持ち、負けたことがなかった。
どんな人間であれ、どんな魔物であれ、必ず勝ってきた。
それは幼い頃からの鍛錬の賜物であり、軍事貴族の血と、二メートルを超える筋骨隆々の体躯も確かに要因だった。
令嬢などという名は、ただの飾り。
彼女は戦場でその名を轟かせてきた。
しかし、英雄と呼ばれる真の理由は、それだけではなかった。
この槍は、王家から直接下賜された秘宝。
本来は父ヴァルヘインが受け取るはずだったものが、婚約を機に娘へと渡された。
不死鳥の魔核を内包し、二つの能力を持つ。
一つは自動修復。
もう一つは、穂先を極限まで熱する灼熱の力。
そしてそれは、所有者の意思と完全にリンクする秘儀だった。
故に誰とも共闘しない。
村の住民を連れてこなかった理由の一つが、まさにこれだった。
この力を見せるのは、この力の代償は、彼女だけの特権であり、覚悟だった。
「滾れ、強敵だぞ」
穂先が赤く輝き始めた。
熱が空気を歪め、周囲の砂がチリチリと音を立てて焼けていく。
マルークがその熱に一歩後ろに下がった。
岩熊が反応し姿勢を低くし、再び突進の構えを取った。
プリメイシアは笑みを浮かべ、灼熱の槍を岩熊に向けた。
「来いよ……こっちも熱いんだ。我慢比べといこうぜ」
この槍の最大発動時間は、それほど長くない。
周囲の温度が急上昇し、使用者の体力を奪っていく。
空気が焼け、熱が肌を蝕む。
短期決戦に特化した、諸刃の力だった。
そのことを知る者は、プリメイシアと父、そしてかつての戦友たちだけ。
岩熊が死を直感したのか体をぶつけてくる。
そして先ほどのように目の前で立ち上がらず、体当たりをしてきた。
上段からの攻撃はかわされると学んだのだろう。
賢い魔物だった。
それが敗因だった。
並大抵の魔物なら、不死鳥の魔力に怯えて逃げ出す。
だがここまでの大型魔物。
しかも子を守る親なら、襲いかかってくるのは必至。
プリメイシアはそれを、最初から計算済みだった。
彼女はギリギリまで引きつけ、間一髪で横に跳んだ。
擦れ違いざま、当初の戦術通り、槍を横薙ぎに振り抜く。
狙いは両眼。
衝撃が柄を通じて腕全体に響き渡る。
彼女は槍を叩き上げるように振り切った。
刃が頭蓋を滑り、跳ね上がる。
勢いのままにプリメイシアは体を反転させ、追撃を試みる。
岩熊が顔面付近から白い煙を噴き上げ、地面を転がりながら咆哮を上げるのが見えた。
明らかに気が動転している。
「やっと獣らしくなったな!」
プリメイシアは地面を蹴り、岩熊の左腋下へ滑り込むように踏み込んだ。
灼熱の穂先を斜め上から、心臓目がけて突き刺す。
刃が肋骨を滑り、中へと通った。
確かな手応えが掌に伝わる。
岩熊が狂ったように暴れ出した。
初めての致命傷。
「ギュオオオオオオオ!!」
巨体が跳ね上がり、プリメイシアは槍を握ったまま宙に舞った。
振り回される。
地面に叩きつけられ、転がされ、砂を抉りながら何度も体が浮く。
灼熱の槍が心臓に刺さったまま、岩熊は前足を乱暴に振り回し、牙をむき出しにして咆哮を上げ続ける。
プリメイシアは柄を両手で握りしめ、決して離さない。
体が何度も砂地に叩きつけられるたび、肩と背中に衝撃が走る。
それでも歯を食いしばり、槍を捻り続ける。
やがて、岩熊の動きが、徐々に鈍くなった。
咆哮が掠れ、足がもつれ、巨体が左右に揺れる。
岩熊はその場に崩れ落ちた。
プリメイシアは槍を握ったまま、砂の上に転がされた。
体を起こし、槍を引き抜く。
先に周囲の安全確認をする。
子熊の姿はもうどこにも見えない。
(親が殺されて、ビビッて逃げたか?)
プリメイシアは倒れた岩熊に近づいた。
槍の構えはまだ解かなかった。
全体を観察する。
動く気配も、息をしている様子もなかった。
軽く槍で突くと、先ほどの硬さはなく、やわらかい毛になっていた。
しゃがみ、直に触れてみる。
心臓の鼓動は完全に停止していた。
するとプリメイシアは体を反転させ、その分厚い脇腹に、背中から体を預けた。
「……まだあったけぇ」
体毛が、分厚い毛布のように全身を優しく包み込んでくる。
温かく、柔らかく、驚くほど心地よい。
戦いの熱がまだ残る毛皮からは、獣の匂いと血の匂いが混じり、微かな蒸気が立ち上っていた。
そこへ、マルークが慌てて近づいてきた。
「プリメイシアさん! 大丈夫ですか!? 怪我は!?」
プリメイシアは右手を差し出した。
まだ戦いの余波で指先が小さく震えていた。
マルークがその大きな手を両手で握ると、プリメイシアは腕を引き寄せ、少年を自分の隣に引き倒した。
「わっ!?」
マルークはバランスを崩し、岩熊の分厚い毛皮の中に頭から突っ込んだ。
「はっはっは! どうだ? すげーだろ、この毛皮」
マルークは毛の海から顔を出した。
「はい、凄いです……! こんな魔物まで一人で倒せるなんて、すごいです!」
「あー、いや。そっちじゃねぇんだけどな……」
プリメイシアは苦笑しながら、マルークの肩に腕を回して抱き寄せた。
少年は抵抗することなく、彼女の胸元に収まった。
「いやー、それにしても疲れた……」
「僕も……疲れました」
一瞬、静寂が落ちた。
風が砂を運び、岩熊の体から熱が失われていく。
プリメイシアは空を見上げ、大きく息を吐いた。
「……こいつ、どうやって持って帰ろうかな」




