ハムスター 1
仕事を終えた俺は、夜遅くにマンションへ帰った。
いつも通りシャワーを浴び、簡単な夕食を済ませる。
歯を磨き、寝室へ向かった。
そこで足を止める。
ベッドの真ん中に、一匹のハムスターが座っていた。
丸い体。
小さな耳。
黒い瞳。
どう見てもハムスターだった。
――野生のハムスターなど、いるはずがない。
誰かが捨てたのか。
それとも、どこかの家から逃げ出したのか。
ハムスターではなく、これはネズミなのか。
俺は深く考えず、ハムスターの首の後ろを指先でつまみ上げた。
「ここは君の家じゃありませんよ」
そう言って玄関へ向かい、ドアを開ける。
そのまま外へ放り投げた。
ドアを閉め、鍵をかける。
これで終わりだ。
そう思った。
しかし数秒後。
カサッ、と玄関のほうから物音がした。
振り返ると、さっき逃がしたはずのハムスターが、当然のように廊下を歩いている。
俺は黙って見つめた。
鍵は閉めた。
窓も開いていない。
どうやって入ってきたのか。
理由は分からない。
だが、そこにいる。
俺はもう一度、ハムスターをつまみ上げると、浴室へ向かった。
空っぽのバスタブの中へそっと置き、バスタブの栓を閉めた。
ハムスターは浴槽の底をちょこちょこと歩き回っている。
俺はそのまま浴室の扉を閉め息をつく。
「明日の朝、森に帰そう」
俺はそうつぶやくと、何事もなかったかのように寝室へ戻った。
翌朝。
いつも通り朝食を済ませ、身支度を整え、家を出る。
警察署へ着くと、捜査一課のデスクに座り、報告書の作成を始める。
キーボードを打つ音だけが部屋に響く。
しばらく仕事をしていると、不意に昨夜の出来事が頭をよぎった。
――そういえば、ハムスター。
俺は手を止めた。
バスタブの中に閉じ込めたままだ。
「中村さん」
俺は席を立ち、上司の中村に声をかける。
「早退します」
「どうした?」
「早退させてください!」
中村は怪訝そうな顔をしたが、深くは聞かなかった。
「……分かった」
俺は軽く頭を下げると、警察署を後にした。
家へ戻り、真っ先に浴室へ向かう。
扉を開ける。
バスタブの底には、ハムスターが横向きに倒れていた。
動かない。
その姿を見た瞬間、胸の奥がわずかにざわついた。
――酷いことをした。
昨日の自分は、閉じ込めれば終わりだと思っていた。
生き物には水も食べ物も必要だという、ごく当たり前のことが頭から抜け落ちていた。
俺は慌ててハムスターを両手で包み込む。
体はまだ温かかった。
「大丈夫ですか?」
返事はない。
キッチンへ向かい、水道の蛇口をひねる。
指先を濡らし、小さな水滴を作る。
それをハムスターの口元へ、そっと近づけた。
「飲めますか?」
俺は祈るような気持ちで、その小さな命を見つめ続けた。
ハムスターはゆっくりと口を開き、俺の指先についた水滴を舐め始めた。
小さな喉が、ごくり、ごくりと動く。
俺は胸をなで下ろした。
「よかった」
冷蔵庫を開ける。
中にあったキャベツを一枚ちぎり、小さくちぎってハムスターの前に置く。
ハムスターは夢中になって食べ始めた。
よほど腹が減っていたのだろう。
その様子を見ていると、インターホンが鳴った。
俺は玄関へ向かい、扉を開ける。
立っていたのは近所に住む女性と、小学校低学年くらいの女の子だった。
女性が申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません。この辺で、うちのハムスターを見かけませんでしたか?」
俺は振り返り、キャベツを食べているハムスターを見た。
ハムスターにかけより両手でそっと持ち上げる。
そして女の子の前へ差し出した。
「このネズミですか?」
「あっ!」
女の子の顔がぱっと明るくなる。
「ハムちゃん!」
大事そうに抱きしめると、ハムスターも安心したように娘の手の中で丸くなった。
「ありがとうございました。本当に助かりました」
母親は何度も頭を下げる。
女の子も満面の笑みで言った。
「お兄ちゃん、ありがとう!」
二人が帰っていく姿を見送り、俺は静かに扉を閉めた。
キッチンへ戻り、散らばったキャベツを片付ける。
それが終わると、風呂はどうなっているかと思い浴室へ向かった。
扉を開けた瞬間、俺は頭をかかえる。
バスタブの底には、小さな足跡と糞が残っていた。
俺はスポンジを手に取り、浴槽を丁寧に磨く。
汚れが落ちるまで何度も洗い流し、ようやく掃除を終えた。




