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3

パトカーを降りた瞬間、怒号とサイレンの音が耳に飛び込んできた。

規制線の向こうには古びた三階建てアパート。

その屋上の縁には、一人の男が立っている。


四十代くらいだろうか。乱れた髪に血走った目。その腕には六十代半ばほどの女性が抱え込まれ、首元には包丁が突きつけられていた。


女性はおそらく男の母親だろう。

男が一歩踏み外せば、二人とも地面へ落ちる。

現場は張りつめた空気に包まれていた。


「捜査一課の田口だ。状況は?」

そう言って田口が警戒線を越えると、待機していた警察官が駆け寄ってきた。


「犯人は一時間以上あの状態です。要求は特にありません。ただ、『近づくな』を繰り返しています」


警察官はメガホンを田口へ渡した。

田口は屋上を見上げ、大きく息を吸う。


「おい!そんな馬鹿な真似はよせ!落ち着いて話そう!」


返事はない。


「お母さんを離せ!まだやり直せる!」


男は包丁をさらに強く押し当てるだけだった。


「近づくなぁっ!」

怒鳴り声が住宅街に響く。


周囲の警察官たちが息をのんだ。

俺はその様子を横目で眺めながら、ポケットから煙草を一本取り出す。

火をつけ、一口吸った。

煙がゆっくりと空へ溶けていく。

その瞬間。


「おい!」


田口が俺の手から煙草をひったくった。


「こんな時に何吸ってんだ!」


そのまま地面へ投げ捨て、靴で踏み消す。


「お前が行け」


そう言って、俺の胸にメガホンを押し付けた。


「……え?」


「俺の説得じゃ駄目だ。中村さんがお前を選んだ理由を見せてみろ」


俺は無言でメガホンを受け取り、屋上に立つ男を見上げた。

男もまた、俺を睨み返している。

周囲の刑事たちは固唾をのんで見守っていた。

現場は静まり返り、次に俺が発する一言を待っていた。


俺は屋上を見上げ、ゆっくりと前へ出た。

そして、二人が落ちてくるであろう場所で足を止める。


周囲の警察官たちがざわつく。

俺はメガホンを口元へ運んだ。


「僕が受け止めます!」


屋上の男が目を見開く。


「だから、落ちてきてください!」


一瞬、現場から音が消えた。

誰も俺の言葉を理解できなかった。


「そんなの無理だ!あんた死ぬぞ!」

男が叫ぶ。


俺は男を真っ直ぐ見上げた。


「あなたたちが落ちれば、そうなるでしょうね」


男は言葉を失う。


「だけど、僕は本望です」


自分でも驚くほど穏やかな声が出た。


「それであなた達が助かるのなら、刑事として、それほど幸せなことはありません!」


男の腕の中にいた母親が、小さく嗚咽を漏らした。

やがて肩を震わせ、泣き始める。

男も唇を噛み締め、目に涙を浮かべていた。

俺は静かに問いかける。


「息子さん。あなたの好きなものは何ですか?」


男は戸惑いながらも口を開いた。


「……アニメだ」


俺は黙って続きを待つ。


「魔法少女ユリア!あの作品だけは……何度見ても元気になれた。でも……」


男の声が震える。


「仕事がなくなって……何社受けても落ちて……もう生きる自信がないんだ。

ユリアのグッズだって、買えやしない!!」


母親が「ごめんね……」と泣きながらつぶやく。


俺はゆっくりとうなずいた。


「あなたの仕事探しは、僕が責任を持ってお手伝いします」


男は涙を流したまま首を横に振る。


「嘘だ!どうして……」


震える声で尋ねる。


「どうして、そこまでしてくれるんだ……」


少しだけ間を置いて、俺は笑った。


「僕も、魔法少女ユリアが好きだから!ちなみに好きなキャラはユリアの妹、マリアです!」


男の目から、大粒の涙があふれ落ちる。

包丁を握る力が抜けた。


「……母ちゃん、ごめん」

震える声とともに、男は母親をゆっくりと解放する。


母親はその場に崩れ落ち、男も膝をついた。

両手で顔を覆い、子どものように泣きじゃくる。

その瞬間だった。


「――今だ!」


背後で田口の声が響く。

待機していた警察官たちが一斉に男の元へ向かう。


「確保!」


数人の警察官が男と母親を素早く保護し、安全な場所へと引き寄せた。

俺はその様子を見届けると、小さく息を吐く。

どうやら今回も、誰も死なずに済んだようだ。




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