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パトカーを降りた瞬間、怒号とサイレンの音が耳に飛び込んできた。
規制線の向こうには古びた三階建てアパート。
その屋上の縁には、一人の男が立っている。
四十代くらいだろうか。乱れた髪に血走った目。その腕には六十代半ばほどの女性が抱え込まれ、首元には包丁が突きつけられていた。
女性はおそらく男の母親だろう。
男が一歩踏み外せば、二人とも地面へ落ちる。
現場は張りつめた空気に包まれていた。
「捜査一課の田口だ。状況は?」
そう言って田口が警戒線を越えると、待機していた警察官が駆け寄ってきた。
「犯人は一時間以上あの状態です。要求は特にありません。ただ、『近づくな』を繰り返しています」
警察官はメガホンを田口へ渡した。
田口は屋上を見上げ、大きく息を吸う。
「おい!そんな馬鹿な真似はよせ!落ち着いて話そう!」
返事はない。
「お母さんを離せ!まだやり直せる!」
男は包丁をさらに強く押し当てるだけだった。
「近づくなぁっ!」
怒鳴り声が住宅街に響く。
周囲の警察官たちが息をのんだ。
俺はその様子を横目で眺めながら、ポケットから煙草を一本取り出す。
火をつけ、一口吸った。
煙がゆっくりと空へ溶けていく。
その瞬間。
「おい!」
田口が俺の手から煙草をひったくった。
「こんな時に何吸ってんだ!」
そのまま地面へ投げ捨て、靴で踏み消す。
「お前が行け」
そう言って、俺の胸にメガホンを押し付けた。
「……え?」
「俺の説得じゃ駄目だ。中村さんがお前を選んだ理由を見せてみろ」
俺は無言でメガホンを受け取り、屋上に立つ男を見上げた。
男もまた、俺を睨み返している。
周囲の刑事たちは固唾をのんで見守っていた。
現場は静まり返り、次に俺が発する一言を待っていた。
俺は屋上を見上げ、ゆっくりと前へ出た。
そして、二人が落ちてくるであろう場所で足を止める。
周囲の警察官たちがざわつく。
俺はメガホンを口元へ運んだ。
「僕が受け止めます!」
屋上の男が目を見開く。
「だから、落ちてきてください!」
一瞬、現場から音が消えた。
誰も俺の言葉を理解できなかった。
「そんなの無理だ!あんた死ぬぞ!」
男が叫ぶ。
俺は男を真っ直ぐ見上げた。
「あなたたちが落ちれば、そうなるでしょうね」
男は言葉を失う。
「だけど、僕は本望です」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。
「それであなた達が助かるのなら、刑事として、それほど幸せなことはありません!」
男の腕の中にいた母親が、小さく嗚咽を漏らした。
やがて肩を震わせ、泣き始める。
男も唇を噛み締め、目に涙を浮かべていた。
俺は静かに問いかける。
「息子さん。あなたの好きなものは何ですか?」
男は戸惑いながらも口を開いた。
「……アニメだ」
俺は黙って続きを待つ。
「魔法少女ユリア!あの作品だけは……何度見ても元気になれた。でも……」
男の声が震える。
「仕事がなくなって……何社受けても落ちて……もう生きる自信がないんだ。
ユリアのグッズだって、買えやしない!!」
母親が「ごめんね……」と泣きながらつぶやく。
俺はゆっくりとうなずいた。
「あなたの仕事探しは、僕が責任を持ってお手伝いします」
男は涙を流したまま首を横に振る。
「嘘だ!どうして……」
震える声で尋ねる。
「どうして、そこまでしてくれるんだ……」
少しだけ間を置いて、俺は笑った。
「僕も、魔法少女ユリアが好きだから!ちなみに好きなキャラはユリアの妹、マリアです!」
男の目から、大粒の涙があふれ落ちる。
包丁を握る力が抜けた。
「……母ちゃん、ごめん」
震える声とともに、男は母親をゆっくりと解放する。
母親はその場に崩れ落ち、男も膝をついた。
両手で顔を覆い、子どものように泣きじゃくる。
その瞬間だった。
「――今だ!」
背後で田口の声が響く。
待機していた警察官たちが一斉に男の元へ向かう。
「確保!」
数人の警察官が男と母親を素早く保護し、安全な場所へと引き寄せた。
俺はその様子を見届けると、小さく息を吐く。
どうやら今回も、誰も死なずに済んだようだ。




