37話 ifは存在しない
ワザトは目を覚ますと血なまぐさい手術台の上にいるのを自覚する。
なぜ? 最初は順調に仕事を遂行していたはず。
「――あら、目が覚めたようね」
この声は聞き覚えがある。あの研究所にいた助手だ。
「私は江田。さすがに3度も顔を合わすのだから名前を名乗って置かないと」
「お前はたしか、感染したはずだ……」
「感染したから貴方に近づけたのよ。異界から来た者は感染者にはむとんちゃくだからね。背後から殴ってみたらすぐ気絶したわ」
「せこいな」
シニカルに笑うと江田は自らの腕を見せた。火傷のような傷と変色した肌。
「あれから異国の使者を捕まえ、そうして貴方から色々もらって、ここまで来た。感染者ではあるけれども自我は有する――いわば化け物になれたわ」
こういうのはなんと言うのだろう。スイがマッドサイエンティスト、と言う単語を教えてくれた……気がする。
「俺をどうしたい? 殺すのか?」
「貴方は人間の世界で生きたくはないの? もしワクチンを作り、完成したら再び世界は人類が暮らせる環境になる」
「え……」
人間の世界で、生きる。
考えた事もなかった。ザワりと内側のオカゲが蠢いた。
いや、でも人間としてオカゲと二人で暮らせるのなら幸せなのかも知れない。ファミリーレストランで二人でスイーツを食べたり、旅をしたり。
(無理だよ。ワタシはそっちでは暮らせない)
冷たい声がした。
(ワタシはワザトの中がいいの。二人で、は嫌だ)
(でも)
(ワザトはそれよりも地球の生活がいいわけ?)
(オカゲ。ごめん。気に障――)
ドロリ、と冷たいような熱いようなものが体内に溶け出す。これはオカゲだ。
(ワザトはワタシのもの。誰にも渡さない。別々になるなんてヤダ)
(ワタシは言ったよね? 食べて、って。そんな覚悟でワタシを中身にいれたの)
(ならオカゲも食べていいよねえ。ワタシの中で生活してよ)
濁流が脳内を満たし、見たことのない記憶がよみがえる。
泣きそうな顔でうつむくオカゲがいた。
それも見知らぬ部屋で。自分が自分でないような、気持ち悪い感覚で口が動いた。
「本当に良いんだね」
「うん。ワタシはもう――」
そこでブツリ、と強制的に意識が途切れる。何か強い薬剤を打たれたようで活動が停止した。
「オカゲがいいのなら、食べていいよ。俺なんて安楽国の捨て駒でしかないんだから」
「……なんで」
黒い水の中で揺蕩い、オカゲの手を探す。
「……捨て駒、なんて言わないでよ。何で平気でそんなこといえるの。自分を大切にしてよ……そう、ワザトが言ったんだよ」
「……。この液体はオカゲか? 苦い味がする」
「なめないでよ。ばっちいから」
「でも受け入れるには悪くない味だ」
冷たい手が添えられ、静かに笑う。これで終わるのだろうか。
「ホント?」
冷たい頬が触れ、口内にドロリと粘度の高い液体が注がれた。オカゲの感情、断片的な記憶、オカゲの悪神としての力――
「ぐ、え」
「……ごめんね。大丈夫。ワタシはあの時みたいに、ワザトを使って意地悪しようとしないから」
「驚いたわ。いきなり化け物に転化しそうになって」
「身体中がいたい」
「それはそうよ。国が開発したクスリを全部使ったのだから、それでも動くなんて日本は敗北したのね」
手術台の上でワザトはしばらくボンヤリした。
「――あっちの世界も悪くない。ただ俺は何もしれてないが……同じように仕事をする仲間がいる。それだけで充分さ」
「そう。私はあきらめないわ。必ずやワクチンを作って、感染者たちを再び人に戻す」
「……そう」
拘束具が外され、江田は扉を空けた。
「寝言に返事はよろしくなかったけれど、貴方もただの人間よ。またこちらの世界に戻れるように願っているわ」
(寝言に返事? 餓鬼は夢を見ないはずだが……)
ハテナを浮かべながらも、礼を言い歩き出した。




