落とし物
「やばい、寝過ごした」
十和田浩介(49)は駅までの道を走っていた。今日は月に一度の土曜出勤の日だったのをすっかり忘れていた。おまけにまだ昨晩の酒が残っており、走っていても時々足がもつれてしまいそうになる。
十和田の勤務している会社は中堅のソフトウェア会社だ。
昼間は営業で契約先を訪問し、夕方から事務仕事で帰宅は21時ごろになる。
だが残業代は出るし、前の職場に比べると待遇はずいぶんいい方だ。数か月前まで勤めていた会社では「お前の仕事の手際が悪いからだ」と言われ、残業代などほとんど出なかった。
昨日は仕事で小さなミスが幾つか重なり、ストレスでつい、自宅で安酒を浴びるように飲んで寝てしまった。
で、今朝起きたら8時30分。会社までは徒歩と電車で1時間の道のり。9時までの始業に間に合うわけない。
「あっ」
上の空で走っていたら、案の定転び、鞄が2メートルほど先に吹っ飛んでしまった。
膝もなんだか痛い。足を見るとスーツのズボンの膝のところが、ぱっくりと裂けている。
「はぁ……もう嫌だ。何もかも嫌だ。会社もやめちまおっかな」
無我夢中で頑張ってきた自分がむなしくなり、両こぶしを地面を叩きつける。だが人の目もあり、いつまでもそうしていられない。
十和田は立ち上がってのろのろと鞄を拾い上げた。
「ん?何だこれ?」
鞄の下から子供の小銭入れのようなものが現れた。
「あの~すみません」
十和田がおそるおそる交番のドアを開けると、書き物をしていた若い巡査がさっと顔を上げた。
「どうされました? あれ?膝怪我されてます?」
「ああ、これはそこで転んでしまって」
「そうですか。ちょっと待ってください。消毒液と傷テープでしたらありますよ」
交番の巡査は親切に薬箱を出してきた。
「いえいえ、それはいいんです。この落とし物を届けに来ただけなんで」
巡査は十和田の手から落とし物を受け取り、調書に必要事項を記入していく。
「子供の財布のようですね。因みにどこに落ちていましたか?」
「あの特徴的な屋根の建物の近く……あれ、宗教施設なんですかね?」
「あ、あの新しい白い建物ですね。確か「伎縁」という宗教法人の本部だったと思います。ちょっと財布の中も確認しますね」
十和田の前で巡査は小銭入れの中身を確認した。
「え~っと、100円玉が1枚、50円玉が4枚と10円玉が8枚で合計380円ですね。それに家の鍵かな?キーホルダーに犬の写真が貼ってありますね」
巡査が四角い樹脂製のキーホルダーをくるっと裏返した。
「あ、名前が書いてある。京極拓海、京極さんならうちの町内に1軒ありますね。あとで電話をかけておきます」
「良かった。落とし主がすぐ見つかりそうで」
十和田はほっと肩をなでおろした。
「通勤途中のお忙しい時間に届けて頂いてありがとうございます。きっと京極さん、喜ばれますよ」
「いや。うちの息子も昔、よく落とし物をして泣いていたのを思い出して、つい気になってしまって。息子とはもう何年も会えていないんですけど……」
離婚して妻に引き取られた息子の顔が頭に浮かび、つい言わなくてもいいことを言ってしまった。巡査が聖母のような優しい目で見つめているのに気づき、恥ずかしくなり、慌てて立ち上がろうとすると膝が痛んだ。
「つっ」
「ちょっと待ってください。やっぱりその膝、気になるので消毒しましょう」
「いや、ちょっと会社に遅刻してしまいそうなので……」
時計を見ると、9時を数分過ぎている。
「いや……もう完全に、遅刻確定なんだけどね」
「会社には連絡されました?」
「いや、まだ……」
「でしたら今連絡されてはいかがです?もし必要でしたら私からもご協力いただいた旨、お伝えしますよ」
「いえいえ、それは大丈夫です」
さすがにそこまで甘えられない。携帯電話で上司に連絡して今の状況を説明すると、そういう理由なら遅れても構わないと言われてほっとする。
「良かった~。本当は寝過ごして大遅刻だったんですけど」
「十和田さんの人徳のなせるわざですよ」
巡査が足の傷に消毒液をかけてくれている。久しぶりの人の優しさと消毒液がしみて、目に涙がにじんだ。




