悪夢
試験まであと数日という時にそれは発覚した。
「どうしてそんな契約私に黙ってしたの!」
涼子は怒りのあまり体の震えを抑えきれなかった。父親がここまで無知な男だったとは。どうして人生の一番大事な時に私の足を引っ張るのだろう。
「俺が悪かった。お前が試験の事で頭がいっぱいみたいだったから」
父が涼子に黙ってした契約は工場の土地を別の土地と交換する契約だった。しかも移転後の土地は今の駅前の土地と違い、資産価値のない二束三文の土地だった。今の工場は騒音規制などで移転が必要なため、早めに契約したほうがいいと促されたらしい。立ち退き業者による典型的な詐欺だ。
「でも新しい工場の土地は高速道路が通ることになっていて、物流のコストからも有利だと言われたんだ」
「それが詐欺の手口なの。どうしてそんな事も分からないの!」
涼子は激怒した。
「これからどうするのよ! 従業員の皆の生活もかかってるのよ!」
「分かってる。俺が何とかする」
父は涼子に背中を向け二階に上っていった。その背中に涼子は追い打ちをかけた。
「お父さんに一体何ができるっていうのよ」
私が明日、知り合いの弁護士に相談に行くしかない。
翌朝、父は工場の中で首を吊った状態で発見された。
足元に置いてあった遺書には自分をだました人間に対する恨みの言葉が綴られていた。そして自分の死亡保険金を社員の退職金にしてほしい。そして涼子にはいつかきっと自分の敵を取って欲しいと書かれていた。
涼子は激しく後悔した。私の言葉が父を死へと導いてしまった。なぜあの時、私が明日弁護士に相談に行くからって言葉にしなかったんだろう。
涼子は体の調子を崩し、二週間ほど入院したが不調がなかなか抜けず、様々な精密検査を行った。楓は涼子を心配して度々見舞いに来てくれた。そして退院した時、これを機に結婚して一緒に暮らさないかと言ってくれた。
涼子は激怒した。
「これを機にって何? 私に同情しないで! 私は楓のそんなデリカシーのないところが大嫌い」
楓は心底驚いたような顔をして涼子の手を握った。
「同情なんかじゃない。今年の試験が終わったらプロポーズするつもりだった」
「私は別れるつもりだった。会計士の同僚から告白されているの。将来は彼と結婚して独立するつもりだから」
「嘘だ」
楓が傷ついた目をしている。
「嘘なんかじゃない」
涼子は楓の手を振り払い走り去った。
楓が会社から道路を挟んだ向かいの公園で待っている。六階の会社のビルの窓からはその様子がよく見えた。いつものコートを着てベンチに座って待っている。
今日は涼子の誕生日だ。家を出て、電話にも出ない私をそこで待っているにちがいないと分かっていた。
涼子は退社の準備をしている同僚の男性に声をかけた。
「例の件これから頼むわ」
「分かった」
彼はコートを手に取り立ち上がった。涼子は彼と一緒にエレベーターに向かった。
エレベーターを降り、ビルのエントランスを出て、横断歩道で彼と一緒に立ち止まる。信号は赤だ。涼子たちに気づいた楓が公園のベンチから立ちあがり、道路の反対側で待っている。
涼子はそばにいる彼の手を握った。背の高い彼が屈みこんでキスをしてくる。涼子は彼の首に手を回した。
横断歩道が青に変わったメロディーで二人は離れた。目を向けると楓はもういなかった。
「ほんとにこれで良かったのか?」
隣の彼が聞いてきた。
「いいの」
「あの人彼氏なんだろ?」
「……」
「キスした時、傷ついた顔してた」
「そう? ここから見えたの?」
「君が」
「……」
涼子は目を伏せた。
「彼がいたらできないことがあるの。だからこうするしかなかったのよ」
「俺で力になれる事はないか? 俺は君のことがずっと……」
「ないの。あなたを利用してごめんなさい」
彼の言葉を遮り震える声で涼子は続けた。
「でもこんなこと他に頼める人がいなくて」
「いいんだ。俺を頼ってくれてうれしいよ」
「……」
声を殺して泣く涼子を周りから隠すように彼はそっと肩を抱いた。
一週間後、涼子の父親を騙した不動産会社の社長が自分の会社で青酸カリを服毒して死亡しているのが発見された。警察はその状況から他殺と断定して捜査を始めた。
事件から三日後、その社長を殺した犯人が警察に逮捕された。その犯人が涼子だと推理したのは楓だった。取調室で涼子は容疑を認め、彼女は留置所に収監された。
「俺はこんなことがしたくて刑事になった訳じゃない」
そう言って泣きじゃくる楓を大知は抱きしめることしかできなかった。楓は精神的なショックから体調を崩し、数か月入院した。
「どうしてこんなこと……」
留置所の面会室のアクリル板の前で大知は声を詰まらせた。
「たった一人の親なの。たった一人で私を育ててくれた。そのお父さんの最後の望みだから」
「君のお父さんの『敵を討ってほしい』っていうのは、きっとそういう意味じゃなかったはずだ」
大知は震える声で反論した。
「そうね、分かってる。でも私には時間がなかった」
涼子は冷静な口調で大知に同調し、言葉を続けた。
「私、余命三か月なの」
涼子は不調で入院した時の検査で、亡くなった母と同じ末期のすい臓がんが見つかったことを大知に話した。
大知は言葉を失った。
「それを知った時私は決心したの」
彼女の力のない目に暗い光が宿った。
「楓と幸せになる未来がないのなら、もう一つの望みを叶えるしかない」
「病気の事、楓には言わなかったのか?」
「言わなかった。言うと奴を殺せなくなる」
「俺は最後の時まで楓と幸せに暮らすという選択肢をとって欲しかった。あいつなら全部受けとめてくれたはずだ」
大知の目から大粒の涙が零れ落ち、震える手の甲を濡らした。
「俺、楓に何て言えば……」
「何も言わないで、楓の側にいてあげて。楓にはあなたがいるからきっと大丈夫」
彼女は夢見るような口調でそう言い、立ち上がった。そして警察官に付き添われ面会室を出て言った。
それから二週間後、彼女は留置所内で余命の期限を待たずに亡くなった。
「そんな……」
明日香は言葉を失った。楓の抱えていた過去がこんなに過酷なものだとは想像さえしていなかった。
「俺は止められなかった。彼女の様子がおかしいと気づいていたのに……つまらない嫉妬で目が曇って……」
楓は震える声で続けた。
「どんなにみっともなくても、あの時彼女とちゃんと向き合えばよかった」
そう言って楓は静かに涙を流した。
明日香は席を立ち、楓の側に行って黙って背中をそっとさすった。
いつか自分が楓にしてもらったように。
この人の心が癒される日がきっと来ますように。そう願いながら。




