恋
翌日、部活が始まる前に一人でいる楓を呼び止めた。
「昨日のケーキ、両方ともおいしかった。ありがとう」
涼子がお礼を言うと、楓は少し呆れたように言った。
「両方って……涼子さん二つ食べたんですか?」
「あ、えっと……」
涼子は赤くなった。
「私はモンブラン食べてたんだけど、父のイチゴショートも気になって。半分もらっちゃった」
「涼子さんって意外と食いしん坊なんですね」
そういって楓はふっと笑った。
涼子はドキッとした。普段感情を表さない彼の笑顔がこんなに優しいなんて。
その時強風が吹き、涼子は思わず目を閉じ身を固くする。しばらくして目を開けると、風から守るように涼子の前で髪をなびかせる楓の姿が目の前にあった。
「大丈夫ですか?」
「ええ」
見上げた先には日の光に透けてやわらかに輝く栗色の髪が……。思わず涼子は手を伸ばしそうになる。
(あの髪に触れてみたい)
涼子はその瞬間、自分が恋に堕ちたことを自覚した。
それからは毎日部活での楓が気になり、つい彼の凛々しい道着姿を目で追ってしまう。ゆっくりと弓を構えるまでの所作、弓を引く時の首から肩までの緊張、集中して的を狙う目つき、そのすべてに目を奪われた。
楓は本当に美しい。本当に美しいものから人間は目が離せなくなることを知った。
楓は一見痩せているように見えるが、体幹がしっかりしており、肩や腕にもしっかりと筋肉がついている。そのため弓を引く時のフォームがまるでブレない。よって弓道の腕前も一級だ。昨年は県大会で上位に入賞し、今年は全国大学の選抜大会にも出場した。
楓とはケーキの件以降、時々話すようになった。とは言っても部活の始まる前や帰りに少し話をする程度だったが。でもそんな涼子のささやかな幸せはある日突然終わりを迎えた。
「あれ? 楓君まだ?」
部活の帰り、いつもの帰宅グループのメンバーの中に楓の姿がない。帰り支度に時間がかかっているんだろうか?
「楓なら先に帰ってくれって」
「そうなんだ」
「きっと告白されてるんじゃないかな。さっきミス大学の藤木さんに呼び止められてたから」
「……」
胸がチクリと痛んだ。いや嘘だ。本当は胸が張り裂けそうだ。
「いいよな~、楓はイケメンで。藤木さんと付き合うんだろうな~」
「そりゃそうだろ。あんな美人振る奴いないって」
「だよな。楓、いいな~。俺もイケメンに生まれたかった」
皆は好き勝手に言って、笑いながら歩いて帰っていく。涼子はその後をとぼとぼとついて歩いた。
そうだよね。私と楓が釣り合う訳ないって分かってた。分かってたけどほんの少し期待してしまっていた。最近の自分へ向けられる楓の優しい視線に。私はどうしようもないバカだ。
「涼子さん」
ある日、キャンパスの中庭で突然楓に呼び止められた。
「涼子さんどうして部活休んでるんですか? あの……俺の事避けてないですか?」
楓と顔を合わすのがつらくてあれから部活をずっと欠席している。
「そんな、気のせいよ」
涼子は踵を返して立ち去ろうとしたが楓に腕をつかまれた。
「待ってください」
「離して」
「嫌です。俺を避けている理由を聞かせてください」
「お願い、離して。みんな見てる。噂になるから」
涼子が懇願すると楓はやっと腕を離した。
「涼子さん、俺と噂になるのがそんなに嫌ですか?」
楓が寂しそうな表情になる。
「そうじゃなくて、楓くん藤木さんと付き合ってるんでしょう? 私と噂になると困るでしょう」
「やっぱり誤解してたんだ」
楓は涼子の目をまっすぐに見て言った。
「俺、藤木さんとは付き合っていません。好きな人がいるからって断りました。俺が好きなのは涼子さんだから」
その瞬間、頭が真っ白になり息が止まりそうになった。今、私は一生分の運を使ったんだと思った。本当なのと楓に何度も確認し、そして聞かずにはいられなかった。私のどこを好きになったのって。
楓は困ったような顔をして言った。
「どこって言っても……気が付いたら好きになってて。涼子さんの事が頭から離れなくなったんだ」
もっと言ってほしそうな雰囲気を察したのか楓は言葉を続けた。
「俺たちって家庭環境が似てるところもあるし、色々話してるうちに涼子さんってすごい努力家だって分かって尊敬してるんだ」
楓の言う家庭環境が似ているって言うのは私に母親がいないからだ。母は私が小学校三年生の時にすい臓がんで亡くなった。それから父と私の二人で一生懸命生きてきた。
学校から帰って宿題をして料理を作り、工場から帰ってきた父の汚れた服を洗濯した。
父は従業員六名の小さな自動車部品の工場を経営しており、工場から帰ってきた後も経営の事で頭を悩ませていた。私は自分のできることを黙々とこなした。私が高校に上がる頃には景気が上向き、工場の経営も安定した。
「今までありがとうな。これで涼子を大学に行かせてやれる」
父にそう言われた時には心から安心した。大学に入った年にはリーマンショックが起きたが会社に貯えがあったため、何とか乗り切ることができた。大学では人並みに遊ぶこともでき、弓道部にも入って友達もできた。そのうえこんな素敵な人に告白されるなんて。
付き合ってからの楓は涼子をとても大事にしてくれた。部活の後、皆と駅で別れてから二人でカフェに行くだけのデートでも楽しくてたまらなかった。休みの日には彼の家にも招待され、彼の祖母や親友と一緒に素敵な庭でお茶を飲んだりもした。涼子は思った。ここで将来彼と暮らしていけたらどんなに幸せだろう。私はもっと彼に釣り合うような人間にならないといけない。
夢のような大学生活を終え、涼子は大手の監査法人に就職した。一年後に卒業した楓は警察官となった。お互い仕事が忙しく、学生時代のようには会えなくなった。だが涼子の気持ちは何一つ変わらなかった。むしろ会えないことでその想いはより強くなったように感じた。そして楓も変わらず涼子を愛してくれている。
涼子は身が引き締まる思いがした。今年で社会人生活も五年目になり、目標にしている公認会計士の資格取得があともう一息だからだ。
公認会計士の試験は短答式と論文式の二つの試験によって構成される。短答式の試験に合格した者のみが論文式の試験を受験できる仕組みだ。
涼子は昨年すでに短答式の試験は合格しており、あと論文式の試験を合格するのみだ。合格すると実務経験のある涼子はすぐに公認会計士に登録することができる。
ただ、前回の論文試験は激務のため勉強時間が取れず、散々な有様だった。今年はあんな思いはしたくない。
涼子は分かっていた。楓が涼子の公認会計士の試験合格を待ってプロポーズしてくれるつもりでいるのを。だから今回は絶対に合格しないといけない。




