不眠
キッチンから軽やかな包丁の音がして、楓は重いまどろみから引き戻された。うっすらと目を開けると、霞んだ視界の先には長い髪の女性の後ろ姿があった。
「涼子」
楓は自分の声に驚いて、思わず身を起こすが、途端に軽い眩暈に襲われた。しばらく目を伏せて深く呼吸をしているうちに、周りの物が見えてきた。そして自分がいつもの二階のベッドではなく一階リビングに敷かれた客用布団に横たわっていたことに気が付いた。
「大丈夫ですか?」
キッチンにいた彼女が様子を見に来た。
「あなたは……」
「もう忘れましたか? さっき送ってきた現場監督の森谷です」
「申し訳ありません。髪型が変わっていたから気づかなくて」
「いいえ。いつもはゴムで束ねてるんですけど肩が凝っちゃって」
彼女は布団に起き上がった楓に笑いかけた。
「少し買い物をして、野菜のスープを作っておきました。また明日様子を見に来ます」
「いや、そんなにお手間をとらせては……」
「いえ、職人さんたちの健康管理も私の仕事ですので、気になさらないでください」
彼女は楓に向かってそう言い、開き戸を開け庭にいる部下の男性に声をかけた。
「そろそろ帰るわよ」
「いや~この庭凄いですよ。思わず写真撮っちゃいました」
「こらこら、勝手に撮らないの。立花さんごめんなさいね」
「いいえ、こちらこそ色々ご迷惑をおかけしました」
楓は二人を見送った後布団に再び横になった。
楓にはこの突然の体調不良に心当たりがあった。ここ数日眠りが浅くてほとんど眠れていない。きっかけは日頃お世話になっている造園師の斎藤氏からの一本の電話だった。電話の内容は、彼が母親の手術の付き添いで田舎に帰省するため、楓に仕事を三日間代わりにやって欲しいという依頼だった。仕事の内容は区の造園工事で、数社の設計事務所や造園会社が参加する大規模なものだったが、楓は慣れた仕事のため快諾した。だが現場の住所を聞いた時楓の心は重く沈んだ。でも行かないわけにはいかない。
日中はまだよかった。心に蓋をして一心に体を動かした。だが夜、体は疲れているはずなのにいろんな思いが吹きだして眠れない。普段飲まないきつい酒を口にして、なんとかうつらうつらすることはできた。そうやって二日間仕事をこなしてきたが、三日目の午後、眩暈がして倒れてしまった。救急車を呼ぼうとする現場監督に寝不足の眩暈だからと言って何とか思いとどまらせて自宅に送ってもらった。
結果的に頼まれた仕事を途中で放り出してしまった。楓は自己嫌悪に陥った。あれから七年もたつのに俺はまだ何も乗り越えられてはいない。その事実を自分の体調不良が証明しているようで……。自分の情けなさに楓の目には涙が溢れ、頬を伝って枕に落ちた。
「立花さん体調いかがですか?」
翌日の朝、現場監督の森谷から電話があった。
「おかげさまで。立って歩けるようになりました」
楓が前日の謝罪をすると森谷は笑いながら言った。
「本当に気にしないでください。それより斎藤さんに仕事の引継ぎの電話までしてもらって。立花さんって本当に律儀な性格なんですね」
「そんな、ご迷惑をおかけしましたから。そうだ、スープありがとうございました。美味しかったです。買い物のお金まで立て替えてもらってすみません」
「立花さん謝ってばっかり。でも良かったです。私それしか作れないので」
「えっ」
「ふふっ」
楓はほっとした。現場監督がおおらかな人で良かった。
「そうだ私、立花さんにお願いがあるんです」
「何でしょう?」
「お庭を見せてもらえませんか?」
「えっ」
「部下の坂井が立花さんのお庭をあまりに褒めるものですから。昨日私全然見られなかったので、もう一度伺って何枚か写真を撮らせていただきたいんです」
「ええ、いつでもいらしてください」
「じゃ、今日の帰りにお見舞いがてら伺います」
「はい……」
楓は電話を切った。良かったのだろうか? でも立て替えてもらった買い物のお金もちょうど返せる。楓は深く考えてはいなかった。
夕方四時ごろ森谷が来た。一人で車から降りた彼女は白いビニール袋を提げている。
「こちら差し入れです。お弁当買ってきました」
「えっ、そんなことまで」
「いえ、私の分を買ったついでですから。それよりお庭見てもいいですか?」
「ええ、どうぞ」
「立花さん、休んでてくださいね。私勝手に見て写真撮りますから」
「はい」
楓はキッチンに入り、用意していた買い物の立替金を入れた封筒をテーブルに出し、お茶の用意をした。
紅茶を淹れたカップをテラスに運んでいると森谷がスマホを手に近寄ってきた。
「本当に見事なお庭ですね。この庭は立花さんが作られたんですか?」
「ええ、亡くなった祖母と二人で作りました。今も毎年少しづつ手を加えてはいますが。あ、よかったら紅茶どうぞ」
「わぁ、ありがとうございます」
森谷は無邪気に喜びカップを口に運んだ。
「美味しい。お庭も素敵だし最高」
楓は思わず微笑んだ。そういえば明日香がこの庭に初めて来たときにも同じことを言っていた。
「立花さんは個人で庭師のお仕事をされているんですか?」
紅茶のカップを置いて森谷が聞いてきた。
「ええ、知り合いの庭を中心にこぢんまりと。時々今回みたいな仕事もしますが」
「そうですか。これまで他の現場ではお目にかかったことがなかったものですから」
確かに楓は庭師の仕事の量を抑えている。在宅刑事の仕事が増えてきたため、工期の長い造園工事などの予定を入れられないためだ。今回のような同業者との合同の仕事は半年ぶりだ。
「森谷さんの会社は設計会社ですけど、森谷さん自身は造園を中心にされているんですか?」
楓が尋ねると森谷は首を横に振った。
「いえ、家の建築の設計もしますし、造園もします。中小企業なので何から何まで」
「建築士さんなんですね。凄いな」
楓が驚くと森谷は嬉しそうに笑って言った。
「いつも図面ばっかり引いています。だから今回みたいな現場があると嬉しいんです。いろんな人に会えますし、こんな素敵な出会いもありますしね」
「えっ……」
この流れって……。緊張する楓をよそに森谷はキラキラした目で話し続けている。
「斎藤さんから立花さんがお一人でお住まいだと聞きました。色々身の回りでお困りでしょうから、体調が回復するまでしばらくお手伝いに来てはいけませんか」
楓は固まった。
「えっと、体調はもう回復したんですが」
「でもまた眩暈がして倒れるかもしれませんし」
森谷はなおも畳みかけてくる。
「あの、友人も時々来てくれますし大丈夫です」
「そうですか……」
「そうですよ。それに森谷さんはまだ今の現場もあるし、お忙しいでしょうからこれ以上はもう……」
楓は立替金を入れた封筒を渡し、頭を深く下げた。森谷はまだ何か言いたげだったが諦めたように立ち上がり、頭を下げて帰っていった。




