新しい職場
十月一日の朝、明日香は玄関の鏡の前で服装をチェックし直し家を出た。
今日から新しい職場での勤務になる。期待と緊張でつい足早になり、あっという間に駅に着いた。
揺られる電車の中、前日の送別会のことを回想する。みんな笑顔で送り出してくれた。桜井だけは泥酔して泣いていたが……。どうも今回の明日香の異動は銃を奪われた時にすぐ助けに行けなかった自分のせいだと思い込んでいたらしい。明日香は言った。あれは私自身が弱かっただけ。私は自分の行きたい部署に行く。だから笑顔で見送ってほしい。
今回の新しい部署は明日香も含めメンバー五人の小さなチームだ。また前みたいに皆と仲良くなれるといいな。明日香の心は踊った。
県警本部に着いた。この巨大なビルの一角が今日からの自分の新しい職場だ。明日香は深呼吸をしながら新しい職場の入り口を跨いだ。
エレベーターに乗り、八階に着く。生活安全部は八階の廊下を隔てた左側の全フロアを占めている。明日香の部署はその一番奥の部屋だ。部屋にたどり着くまでにあれっと思うこともあったが、今は気にしないことにした。さあ、これから私の新しい仕事のスタートだ。チームのメンバーは明日香も含めて女性二人、男性三人のようだ。明日香は自分から皆に声をかけた。
生活安全部への挨拶や自己紹介が終わり、机の設置作業を終えたところで同僚の水樹瑠奈が話しかけてきた。
「工藤さん、『明日香さん』って呼んでいいですか?」
「ええ、もちろん」
「私の事は『瑠奈』って呼んでください。もしよかったら一緒に食堂でお昼食べませんか?」
「うん、行こう」
水樹瑠奈は色白で華奢な女性警察官である。栗色のゆるく巻いた肩までの長さの髪に、色素の薄い茶色の瞳がまるでフランス人形のようだ。自己紹介の時二十歳と言っていたので、高校を卒業してすぐに警察官になったのだろう。
二人はいそいそと食堂へと向かった。
食堂にはたくさんのメニューがあった。男性の多い職場故、ボリュームたっぷりのメニューばかりだ。
明日香は日替わり定食、瑠奈はかつ丼大盛りを頼んだ。
「えっ、瑠奈ちゃん、そんなに食べられるの?」
明日香はびっくりした。小柄で華奢な彼女がかつ丼、しかも大盛りなんて。
「ええ、いつも食べてます。私、弟が三人いて、いつもおかずの奪い合いなので、昼に体力つけとかないと」
見た目とのギャップがすごい。でもこの子とは仲良くなれそうだ。
瑠奈と一緒にご飯を食べ終わって、食堂を出たところに大知が一人でやってきた。
「あ、工藤さん」
大知が珍しく苗字で呼んでくる。明日香も調子を合わせた。
「戸田部長、今日からこちらで働くことになりました。よろしくお願いします」
「こちらこそ。水樹さんと同じチームなんだってね。水樹さん、工藤さんをよろしく頼むね」
大知がにこやかな顔をして手をあげて通り過ぎた。瑠奈が不思議そうな顔をして明日香を見た。
「明日香さん、戸田部長とお知り合いなんですか?」
「うん、共通の友人がいてね」
さすがに毎週のように会っているとは言いづらい。
「へぇ、そうなんだ。私隣の部署で働いてたけど、部長があんなにニコニコしてるの初めて見ました」
「えっ、そう?」
明日香の知る大知はいつものほほんとした感じだが、職場では立場上厳格な感じで振舞っているんだろうか? そうであれば彼のイメージを傷つけないよう気を付けないといけない。
「明日香さんって戸田部長の彼女知ってます?」
八階へ戻るエレベーターを待っていると突然瑠奈が聞いてきた。
「え? 彼女いないと思うよ」
明日香が言うと、瑠奈はにやりと笑った。
「じゃ、秘密にしてるんだ。実は私、前に部長と彼女が電話で話してるの聞いちゃったんですよねー」
(これって大知さんが気にしてた例の噂……)
エレベーターに乗り込みながら、明日香は瑠奈に聞いた。
「どんな話してたの?」
「部長ったら甘えた声で『楓、今日泊まりに行ってもいい? 楓の好きなアイス買っていくからさぁって』……ふふ」
皆聞いててキャッキャ言ってましたと瑠奈は思い出し笑いをしている。
(なんてこった! そういう事だったのか!)
衝撃を受けている明日香をよそに瑠奈はしゃべり続けている。
「楓さんって素敵な名前ですよね。きっと長い黒髪の和風の美人さんなんだろうなって」
瑠奈の妄想は止まらない。
「そして朝、寝起きの悪い部長にシジミの味噌汁を作って起こしてあげるような、そんな包容力もあって花柄のエプロンの似合う大人の女性なんだろうなって」
名前だけでそこまでイメージできるなんて相当な想像力の持ち主である。
「えっと、私の知ってる楓さんは男性なんだけど……」
エレベーターを降りたところで明日香が口を挟むと、何故か瑠奈は突然立ち止まり、ドキドキしたように顔を赤らめた。
「えっ、部長ってそうなんですか?」
飛び上がらんばかりに興奮している。不思議に思って明日香は聞いた。
「そうって何が?」
「私、実は腐ってるんです!」
「は?」
(腐るって、何が?)
全く話がつながらない。
この二十歳そこらのピカピカお肌の女子が腐ってるんなら、私なんかとっくに分解されて土に還ってるわ。明日香はちょっとムッとした。
昼からも作業は続いたが、やっと備品の設置も終わり、空いた段ボール箱も片づけた。これで準備室も稼働できそうだ。
チーム長の提案により、廊下を挟んで向かいの部屋に挨拶に行くことになった。
五人のメンバーで向かいの部屋をノックする。ドアをあけると見たことのある顔が二つあった。向こうが気づいて声をかけてくれる。
「あれ? 前に横浜南署の合同会議の時にいらっしゃいましたよね?」
翔君の誘拐事件の時に捜査会議の司会をしていた男性と、大知にメモを渡していた男性だ。
「はい、その節はお世話になりました。工藤と申します。今日から向かいの部屋の生活安全部未成年捜査対策チームに配属になりました。よろしくお願いします」
「そうなんだ。俺は上田で、こちらが塚本。こちらこそよろしくね」
二人は明日香と同じくらいの年齢に見える。くだけた様子で挨拶し、他の皆とも談笑している。どうも明日香以外は知り合いのようで、皆でなごやかに会話をしていると……。
「いやー、楽しそうだね~」
ドアから大知がニコニコしながら入ってきた。
(やっぱり。朝、部屋の前を通った時嫌な予感がしたんだよね。大知さん、私の部署が向かいの部屋って知ってたんだ)
大知と素知らぬ顔をして挨拶をした後、部屋を出ようとしてふと振り向くと、大知がにやりとしてウィンクをした。




