噂話
横浜市内にある神奈川県警本部の一階には数十人の警察官が利用できる大きな食堂がある。昼休みが始まると、食堂の券売機の前は行列ができる混雑ぶりだが、昼休みが終わりに近い今、利用している人の数もまばらだ。
食堂で昼食をとった大知は缶コーヒーを買おうと食堂横の自販機コーナーに向かった。
自販機コーナーの奥には幾つかの立ち飲み用のテーブルが設置されている。そのテーブルの一つで大知の部下である上田と塚本が楽しそうに立ち話をしているのが聞こえた。二人ともこちらに背を向けており、大知の存在には気づいていない。
「今度俺の高校時代の同級生の女の子と合コンしようって話してるんだけど、お前も来ない?」
上田が塚本に尋ねている。
「いいね! 行く行く」
塚本はノリノリである。
大知は羨ましく思った。この歳になると誰も合コンなど誘ってくれない。若い時も昇進試験などに時間を取られ、ほとんど遊んでこなかった。男性が圧倒的に多い職場では出会いもなく三十二歳のこの年で独身である。
大知は二人をからかってみようと後ろから声をかけた。
「えーいいな~! 俺も合コン行きたい!」
笑顔で振り向いた二人は硬直した。
「部長……」
そこには県警本部でも頭一つ抜き出たキレ者と噂の上司が羨ましそうな顔をして立っていた。
「お疲れ様です」
とりあえず挨拶した上田が首を捻っている。
「おかしいな。合コン行きたいって声が聞こえた気がしたんだけど」
「だよな……」
塚本も戸惑い顔だ。
「だから、それ俺が言ったの」
大知がそう言うと二人は言葉を失い固まった。
やがて上田が引き攣った顔で言葉を無理やり引っ張り出した。
「何言ってるんですか。部長は彼女いるでしょ」
「え? いないよ?」
大知はきょとんとした。
「またまた~」
今度は塚本が引き攣った顔をしてツッコんできた。
「前に女の子たちが騒いでましたよ。部長が彼女と電話で話してるの聞いたけどラブラブな感じだったって」
「えっ、それは俺じゃないよ」
職場から彼女に電話したことなど一度もない。だって彼女いないんだから。
「部長みたいにイケメンのエリートが彼女いないわけないじゃないですか~」
そう言うと二人はじりじりと後ずさりしながら、休憩時間が終わるんでと言い、走るようにして去って行った。
「ねえ、何で俺ってモテないんだろう?」
土曜日の昼下がりの午後、楓宅のリビングで大知が突然切り出した。それまで楓と明日香は本を読んだり、紅茶を飲みながらお菓子を食べたり自由に過ごしていたが、二人共硬直したように動きを止めた。
リビングの空気がしんと静まり返った。
「なんで突然そんな事、聞こうと思ったんですか?」
冷静な声で尋ねる明日香に、大知は前日の部下とのやり取りを告白した。
明日香は部下の二人に同情した。上司が合コンに来るなんて最悪だ。ごまかして逃げてしまう気持ちも分かる。
「大知さんが彼女と電話してたっていうのは、単に人違いじゃないですか?」
「俺もそう思うんだけどね」
大知はあっさりと認めた。
「もしかして俺がモテないのは、彼女がいるって職場で広まっているからかもって思っちゃって」
悩まし気にため息をつきながら大知はぶつぶつと呟いている。
「いい感じになってる女子といえば、今のところ同じギルドのソフィアくらいなんだけどな。でもチャットだけで電話したことないし」
明日香は楓と顔を見合わせた。大知の独り言は止まらない。
「一体誰と間違ってるんだろうね。女の子たちに聞きたいけど立場上なかなか聞けないよね。俺、無駄に偉くなっちゃってみんな話しかけてこないし……」
大知は長いため息をついた後、トイレに行ってくると言い席を立った。
「ギルドってもしかしてあのゲームの?」
明日香が尋ねると楓がうなずいた。
「ああ、ソフィアも凄腕のゲーマーらしいんだ。二十代のⅠT企業勤務のアメリカ人の女の子らしい」
「へぇ、大知さん英語もできるんだ」
明日香は感心した。
「なんで大知ってモテないんだろう?」
楓が真剣に考え込んでいる。
「まあ色々理由はあると思いますが、一つはあの口のせいじゃないですかね?」
「口?」
楓が不思議そうに見返してきた。
「口って何のこと?」
「え? あのいつもやってる鼻と上唇の間にペンを挟むあの癖ですよ」
「え? あれってそんなにおかしいの?」
「タコみたいじゃないですか!」
明日香はズバッと言った。
「百年の恋も冷めると思いますよ。まあ私は楓さんがあの口をしていても素敵だと思いますけどね」
いけない! つい楓への恋心がこぼれ出てしまった。そっと楓の方を見ると、両手で頭を抱え込んでいる。
「何てこった! あれそんなにおかしいのか。子どもの頃から見慣れてるから何とも思わなかった」
私の恋心はスルーですか……。
「大知に知らせてやるべきだろうか?」
楓はまだ頭を抱えている。
「そのままでいいんじゃないですか? それも含めて好きという人がきっと現れますよ」
明日香がムッとして言うと、楓が頭を抱え込んだまま見上げてきた。
「いや、それなら今までにも現れてるんじゃないか?」
「確かに……」
二人の間に沈黙が流れた。
「でもそういうのって、本人に言いにくくないですか?」
「うん……」
「まあ、折を見て言えそうだったら言うということで」
「そうだな」
「ねえ、もしかしてそれ俺の話?」
「わ!」
完全に大知の存在を忘れていた。振り返ると大知がのほほんとした顔で立っている。
折が目の前に来てしまった。明日香は腹を決めた。
「今楓さんとなぜ大知さんがモテないのか検証していたんです」
我ながらひどい話の切り出し方だと思いつつ明日香はチラリと大知を見た。
「うんうん、それで?」
大知が目を輝かせ身を乗り出してきた。
あくまで私個人の意見ですが……そう前置きし、明日香は大知のタコのような口が原因の一つではないかと指摘した。
「何てこった!」
今度は大知が頭を抱えた。
「あれ俺まだやってんの? 中学生くらいでやめたつもりだったのに」
小学生の頃、皆が笑ってくれるのが嬉しくて、調子に乗って何度もやっていたら癖になってしまった。母親や妹からさんざんバカにされ、中学ではやめたつもりだったのに、いまだに無意識でやっていたとは。
「でもいつもしてる訳じゃないよね?」
大知がかすかな希望にしがみついてきた。
「比較的頻繁にやってるんじゃないですかね。私と出会ってすぐ三分くらいでやってましたから」
明日香が大知の希望を打ち砕いた。
「楓も教えてくれたらいいじゃないか!」
大知が突然怒ったように口調を荒げた。
「子供の頃から見慣れてて、何とも思わなかったんだ。ごめん。さっき明日香に聞いてそんなにおかしいのかとびっくりしたんだ」
楓が申し訳なさそうな顔をして謝った。
「……やっぱ変な顔だよね?」
しばらくの沈黙の後、大知が上目遣いで明日香に確認してきた。
「鏡を見ることをお勧めします」
明日香は即答を避けた。
「ちょっと見てくる」
大知はペンを片手に洗面所に行き、おそるおそる鏡を見た。
「……」
次の瞬間、大知はガクッと洗面台に手をつき頭を垂れた。
ペンがカランと軽快な音を立てた。
数分後、洗面所から帰ってきた大知は明日香にお礼を言った。
「言いにくいことを言ってくれてありがとう。職場では誰も注意してくれる人がいないから」
一人暮らしだし、明日香ちゃんが言ってくれなかったら一生気づかなかったかもしれないと本当に喜んでいる。大知のいいところは、この素直なところなんだろうなと明日香は思った。
「二人とも、今度俺がこの顔してるの見たらすぐに注意してくれる?」
大知が上目遣いで恥ずかしそうに聞いてきた。明日香と楓は顔を見合わせて頷いた。
「ええ」
「わかった」




