明日香の決意
事件の処理が終わり、久しぶりにまとまった休みを取ることができた。旅行に行こうと思えば行けたのだが、明日香の足が向く先はやはり楓の元になってしまう。
もう少しで楓の家に着く。今日も手土産に大森屋のエッグタルトを買ってきた。楓はあのエッグタルトが大のお気に入りらしい。
明日香としては大勢の刑事の前で包装紙に書いたにゃんぬうの絵を晒されたトラウマがあるので正直微妙だ。だが、楓の喜ぶ顔見たさに今日も買ってきた。
このエッグタルト、味は抜群だが包装紙のセンスは絶望的だ。今度店主に言ってやらねばと思ったが、人のよさそうな店主夫婦の顔が頭に浮かび、やめとこうと思い直した。
楓の家に到着した。最近は勝手知ったる何とかで、楓の迎えを待たず庭を通ってテラス側の開き戸へと直接足を運ぶ。
「楓さん、こんにちは」
空いた開き戸から楓に声をかける。
「ああ、いらっしゃい」
キッチンの中の楓が棚から手をおろし、振り向いた。
「何してるんですか?」
「さっき、新しい紅茶の茶葉をいくつか買ってきたから、缶に詰め替えていたんだ」
楓は戸棚の缶を指さした。銀色の鈍い光を放つ同じサイズの缶がずらりと並んでいる。
「わぁ、たくさんありますね」
「今日は工藤さんも茶葉を選んで一緒に淹れてみないか?」
「楓さんにお願いがあります」
明日香はかしこまった口調で言った。
「何?」
何か怖いなと笑いながら楓が振り返った。
「私の事名前で呼んでくれませんか?」
「えっ?」
楓が少し戸惑っている。
明日香は急いで説明した。
「ほら、私は楓さんの事名前で呼んでるじゃないですか。大知さんの事だって」
急に恥ずかしくなり、口調が早くなる。
「なのに楓さんだけ、私の事工藤さんって呼ぶから。大知さんなんて出会った時から私の事名前で呼んでますよ」
「確かに……」
楓は納得したようにうなずいた。
「えっと……明日香ちゃ……」
「呼び捨てでいいです」
明日香は急いで言った。
「ほら、友達同士って普通に名前で呼び合うでしょう? そんな感じで」
「分かった、明日香」
楓に名前を呼ばれた瞬間、いかに自分がそう呼ばれたかったかが分かった。幸せな気持ちが胸いっぱいに広がっていく。
いつかこの人の特別になりたい。私にとって楓さんはもうずっと前から特別なんだけど。
想いを飲み込み、明日香は戸棚の前に行って茶葉の缶を見上げた。
「楓さんのお勧めはどれですか?」
「この新しい茶葉、せっかくだから試してみようか」
楓は缶の一つを手に取り、ガラス製のティーポットを食器棚から出してきた。そして可愛い薬缶に水を入れガスコンロの火にかける。
「そうだ。これ、いつも同じで申し訳ないけどよかったら」
明日香がエッグタルトの袋を差し出すと、楓が嬉しそうに笑った。
「ありがとう。これ大好きなんだ」
知ってる。明日香は心の中で呟いた。
薬缶からクツクツと沸騰したお湯の音が聞こえてきた。楓が缶を手に取り、温めたガラス製のティーポットに茶葉を匙で計って入れる。そして熱いお湯を勢いよくティーポットに注ぎ入れ蓋をした。
「わぁ~」
茶葉がお湯の中で踊っているようだ。次第に琥珀色に染まっていくお湯の色を見ているとなんかほっとするような切ないような、この時間が永遠に続けばと思う。
両肘をついてじっと目の前のポットを眺める。斜め向かいの席では楓が同じ格好でポットを眺めていたが明日香の視線に気づくと、恥ずかしそうな顔で口を開いた。
「こうやって茶葉が舞い上がる様子を見ていると、心が落ち着いて思考が整理されていく気がするんだ」
「分かる気がします」
「紅茶を飲むのも好きだけど、本当は淹れる方が好きなのかもしれない」
「私は楓さんが淹れてくれた紅茶を飲むのが好きです」
「ありがとう。どうぞ」
楓が紅茶をそっとカップに注いでくれる。
「そうだドライフルーツがあるから紅茶に入れてみないか?」
楓が立ち上がり、明日香に背を向け戸棚に手を伸ばす。その背中に向かって明日香は話しかけた。
「この間まで私、警察をやめようと思ってました」
楓は驚いたように振り向いて口を開きかけたが、戻ってきて椅子を引いて元の席に座った。
「楓さんに助けてもらったあの日から、私は劣等感に押し潰されそうでした」
紅茶のカップを両手で包みながら話し出す。
「警察官なのに犯人に銃を奪われて。上司にもお前は刑事に向いていないと言われました。毎日平気な顔をして署に出勤していましたけど心の中はぐちゃぐちゃで。でもここで楓さんや大知さんと過しているうちに、少しづつ心が落ち着いていったんです」
楓は黙って聞いている。明日香は話を続けた。
「そして今回の事件で気づいたんです。私、刑事という職業にとらわれすぎていなかったかと」
明日香は心を落ち着けるように紅茶を一口飲んで話を続けた。
「私の父は捜査一課の刑事でしたが、私が高校二年生の時に殉職しました。私は父の事が大好きだったのに、一時期父と距離を置いていたんです。その離れて暮らしていた時期に父が殉職しました。強盗事件の人質を助けようとして、犯人に射殺されたんです」
明日香はテーブルの上の両手に視線を落として続けた。
「もっと父と一緒に暮らせばよかった。もっと父を理解してあげればよかった。後悔をあげればきりがありません。でも父が誇りを持っていた刑事の仕事を私が引き継ぐんだ。そう心に決めたらやっと前を向くことができたんです」
明日香はこぼれそうな涙をこらえ、くっと上を向いた。
「でも、今回銃を奪われたことで思い知りました。私は絶望的に刑事に向いていないと。
今までの私の思考では警察官=刑事しかありませんでした。だから警察に私の居場所はない、そう思い込んでいました」
開き戸から優しい風が入り、黙って聞いている楓の髪を揺らした。明日香はしばらく目の前のカップを見つめていたが顔を上げて続けた。
「でも今回の事件で美空ちゃんと過ごすうちに思ったんです。私はこんなつらい思いをする子供たちの力になりたいって。そしてそれも大切な警察官の仕事の一つだと気づいたんです。私は刑事としての父が好きだったんじゃない。困っている人に寄り添おうとする人間としての父が好きだったんだと今回の事で思い出したんです」
明日香は顔を上げて楓の目をまっすぐ見て言った。
「私は上司に生活安全課の異動願を出そうと思います。希望どおりになるかは分かりませんが、どんな仕事も前向きに頑張ろうと思います。ほんとは誰にも相談するつもりはなかったんですけど、楓さんだけには言っておきたくて」
「明日香は強いな」
楓はぽつりと言った。目の前の紅茶は手つかずのままだ。
「明日香がつらい思いをしているのはなんとなく分かっていた。でも俺には明日香のためになるような助言ができなかった。なぜなら俺自身が挫折して警察をやめているからだ」
楓は伏し目がちにテーブルの上の自分の手を眺めながら呟いた。
「他人に頑張れと言われてもどうしようもできない時はある。でも明日香は一人で乗り越えたんだな。尊敬するよ」
「そんな、一人じゃないです。楓さんと他一名のおかげです」
明日香は恥ずかしそうな顔をして言った。
「他一名って大知の事?」
楓はほんの少しだけ笑った。
「ご想像にお任せします」
(ほとんどは楓さんのおかげです。ここに来るだけで元気になれたんだから……)
口に出せない想いを目の前の紅茶を飲んでごまかした。
「あの前から気になっていて……。聞いてもいいですか?」
「何?」
「楓さんが警察をやめた理由……」
「……」
楓の顔が明らかに曇った。
「ごめんなさい。余計なことを聞いて」
明日香は急いで言った。
「誰にでも言いたくないことはありますよね。忘れてください」
「いや、大丈夫だ」
そう言いながらも楓の目が愁いを帯びた。
「大事な人が続けて亡くなったんだ。それで心が壊れて体も動かなくなった。一人は自分の目が曇っていなかったら、もっと長く生きられたかもしれないのに」
きっとその人は楓さんの好きだった人だ。そしてその事で彼はまだ深く傷ついている。明日香はなんとなく直観でそう思った。
「無理矢理聞いてしまってごめんなさい」
明日香は反省した。楓の事を知りたいばかりに、無神経に心の中に踏み込んでしまった。
「いや、もう六、七年前の話だ。警察をやめてイギリスに庭の勉強をするため二年間留学した。そうしたら元気になった。どうも俺は植物を触っていると元気になるらしい」
「あ、それ分かります。私も初めてこの庭の草抜きした時、スッキリしました」
二人は顔を見合わせてほほ笑んだ。
ふと明日香は気づいた。
「そういえば今日他一名が来てませんね」
「やっぱり大知の事だったんだ」
楓は少し笑った。
「昨晩から今朝までゲームしてたから、今日は一日中寝ると朝連絡があったよ」
「ゲームって謎解きゲームじゃないですよね?」
明日香が流し目でチクリと嫌味を言うと、楓は肩をすくめて笑いながら言った。
「いや、デルブ・ザ・なんとかっていうオンラインのゲームらしいよ。大知は相当な腕前で世界中のプレイヤーから尊敬されているらしい」
「あの人、よくそんな元気ありますね」
明日香は半ば呆れたように言った。今回の事件の指揮を見て、あののほほんとした大知が実際は相当なキレ者だと思い知ったが、遊びの方でもキレ者か。ほんと凄い人だ。
ふと明日香は気づいた。
「ちょっと待って、そのゲームって世界中の能力者を集めて銀行の地下金庫破るやつですよね?」
前にゲーム好きの友達が話しているのを聞いたことがある。
「そうそう、詳しいね」
「警視正がそんなのやってていいんですかね? 警察官のトップとしてモラル欠けてません?」
「言えてる」
二人は顔を見合わせて笑った。
「ごめんなさい。ポットの紅茶濃くなっちゃいましたね」
ガラス製のティーポットに三分の一程残った紅茶が深い茶色になっている。
「大丈夫。牛乳があるからミルクティーにしよう」
冷蔵庫に行きかけた楓がふと気づいて手を止めた。
「そうだ、大知がこの間買ってきたバニラアイスがある。あれに紅茶かけてみようか?」
「アフォガードみたいに? 面白そう!」
二人はいたずらを思いついた子供のようにワクワクしながら皿を用意する。
開け放した窓から聞こえる涼やかな葉音がさわさわと囁く。もうすぐ来る夏の始まりを告げているようだ。
二人が作ったアフォガードはちょっと微妙な味だったけど、明日香にとっては最高に幸せで忘れられないティータイムになった。




