38 頑張り屋さんたち(2)
伯爵家の執事にカプセルを売りつけて帰ってくると、「失わせ屋」では二人の男性が待っていた。
「お待たせしました。どのようなご用件でしょうか」
一人が「この子に未来を見せてあげてほしいんです」と切り出した。
「この子」と呼ばれた男性は、俯いている。黒くて長い髪が白い肌にかかっていて、よく顔が見えない。
「大丈夫だって言ってるのに」という声に、尋常ではない深みがある。
「いい声…」
「ありがとう、声を褒められるのが一番嬉しいんだ」
そう言って顔を上げた彼に、私は息をのんだ。
「フランシスコ・アルヴァ…?」
「僕を知ってるの?」
「当然です」っていう言葉じゃ、足りない。
魔塔にいたころ、同僚に連れていかれたオペラに、彼が出演していた。
彼の声と歌は、ド素人の私にもわかるくらいすごくて。声が私の身体に飛んできて当たって、脳までびりびり震えるくらいの感覚にさせられて。
魔導士でもないのに、遠隔で武器も持たず他人にあんな影響を与えられる人がいるんだって思わされたのは、後にも先にも彼くらいのもので。
それ以来、彼が載った新聞や雑誌を保管するくらいは…あと正直言うと彼の姿を描いたポスターを買って部屋に貼るくらいは…しているのだ。
「アルヴァさん、一体どうされたんですか」
彼の兄だと名乗る男性が、「フランシスコに休んでほしい」と説明する。
彼のマネージャーは、彼に尋常ではないほど忙しいスケジュールを与えている。
オーディション、公演、衣装のフィッティング、営業、営業活動のための肖像画づくり、指揮者たちとのネットワークづくりなど、ほぼ休みはない。
彼も「主役として王立劇場のセンターに立つために」「あなたのファンも、努力するあなたの姿を応援してくれている」「休んだらすぐライバルたちに追い抜かされる」というマネージャーの言葉に納得し、熱が出ても気分が悪くても休まないのだという。
幕が上がる直前まで高熱に震えていて、舞台の幕が下がった瞬間に倒れ込むことも、少なくない。
「年に一回の休みでようやく実家に帰ってきたと思ったら、そんな風に働いていると聞かされて、腰を抜かしそうになったよ。こんな無理を続けていたら、いつかフランシスコが壊れてしまう」
「心配しすぎだよ、兄さん。これは僕とファンの夢のために必要なことなんだから」
「倒れたら夢を叶えられなくなるって、何度言ってもわかってくれない」という兄のため息とともに、私は彼に術をかけた。
◇
いつも熱っぽくて、眠い。
大丈夫、ただの疲れだ。若いんだから、眠れば回復するさ。
けれど、眠れない。眠りにいざなってくれる薬の量が増えていく。
昼は眠すぎて、台本の内容を覚えていられない。
舞台袖に引っ込むたびに台本を確認して、つぎはぎのように歌う。
「フランシスコ!ファンから差し入れよ!」
「…ありがとうございます」
ファンからもらうお菓子や果物を食べるのは大好きだったのに、いつからか、味がしなくなった。
《いつか倒れてしまうぞ、フランシスコ》
兄さんの声が蘇る。
「…ううん、絶対大丈夫。まだ大丈夫」
ほんの短い睡眠の中で、「舞台で歌詞を忘れて、時間が永遠に止まってしまう」という夢にうなされるようになった。
「夢だった。よかった…」
でも本当に、舞台の上で歌えなくなったら…?
そんな恐怖に駆られ、劇場に入るときに涙が出てくるようになった。
「怖い…」
そして家を出るときに足が震え、とうとうベッドから起き上がれなくなった。
夢だった「アウレリオ」のタイトルロールを、王立劇場で演じられることが決まったばかりなのに。
「フランシスコ、この状態じゃ舞台に立つのは無理だわ。残念だけど降板するしかないわね」
「そんな!嫌だよ。少し休んだら、よくなるから」
「だめよ。王立劇場の支配人に大目玉を喰らうわ」
「マリア!僕の夢の伴走者でいてくれるんじゃなかったの?」
マネージャーは「やれやれ」という目で僕を見る。
「こんな状態で舞台に上げたら、私の評判だって落ちるのよ」
ようやく掴んだ夢が、冷たい一言で、あっさりと消えてなくなった。
《フランシスコ、倒れたら夢を叶えられない。どうか休んでくれ》
マネージャーじゃなくて兄さんの言葉に従っていたら、僕は夢の舞台に立てていたのだろうか。
今更そんなこと考えたって、もう遅い。
「もう夢は叶わない…」
どうしてそうしたのか、自分でもわからない。ただ僕は枕元の水差しを割って、その破片を手にとった。
◇
フランシスコはすうっと目を開けた。
「今のままだと、ああなるの?」
「そうだ。だから休んでくれ、フランシスコ」
「だけど…その間に他の歌手に抜かされたら?ファンが僕のことを忘れちゃったら?」
フランシスコの目に、涙が浮かんでくる。
「…ファンがあなたを忘れることなんて、ありません!」
涙に濡れたフランシスコの目が、私を見つめる。
「どうして言い切れる?」
「私、あなたのファンです。ずっと待ってるって約束しますから」
「本当…?」
「本当です。大きな夢が叶うのは、ゆっくりでもいいんです。あなたが健康で、舞台に立つことを心から楽しんで、私たちに声を届けてくれることが、何より大切だから」
「だけど…」
フランシスコの瞳が揺れる。
その瞳から光が失われることが、怖い。
私は拳を握った。
「じゃあ、あなたがしっかり休んだあとの未来を見せます」
健康な三十代くらいの彼が、アウレリオとして王立劇場に立ち、観客の喝采を浴びる姿を。
「あのとき休んでよかった」「遠回りだったかもしれないけど、間違いじゃなかった」という思いを。
彼の「舞台に立つ喜び」と、ファンの「舞台に立つ彼を見る喜び」が交差する景色を。
もう一度現実に帰ってきた彼は、「そうか」と頷いた。
「素晴らしい景色を見せてくれてありがとう。休むことにするよ」
何度も振り返って頭を下げてくれるお兄さんに連れられて、フランシスコは帰っていった。
◆
彼らはきっと、たぶん、満足して帰っていった。
けれど。
フランシスコに見せた「二度目の未来」は、シミュレーションじゃない。ただの幻影だった。
「こうなってほしい」という自分の思いを、彼に押し付けたんだ。
あんなことをして、よかったんだろうか。
「いや、だめだろ!あれは嘘だって、謝らないと…!」
彼を追いかけようとドアを開けたら、ドアの向こうにいた人が慌てて身体を引いた。私にランカスター邸に置き去りにされた、ローウェンさん。ようやく帰ってきたらしい。
「ティナ殿、どうして先に帰ってしまったんですか。ランカスター邸で私がなにか気に障るようなことをしたでしょうか…って、なんで泣いてるんですか!?」
「説明はあとで!今は急ぐので…!フランシスコが町を出る前に言わなきゃ…!」
「待ってください、ティナ殿!」
私はひとつしかない町の宿に駆け込み、フランシスコに謝る。
「あれは私の希望を具現化したただの幻影で、未来そのものじゃありません。嘘をついて、あなたを操作しようとして、ごめんなさい。私、ファン失格っていうか、失わせ屋も人間も失格です」
フランシスコはふっと笑った。
「わかってたよ」
「え、どうして…?」
「二回目に見た未来は、王立劇場の内装が改装前のままだったんだ。一回目は新しかったのにさ」
未来シミュレーションじゃなくて私の記憶をもとにした幻影だから、内装が古くなったのか。
「じゃあ、どうして『休む』って…」
「それはね」
フランシスコは両手を広げた。カーテンコールで観客の歓声を浴びているかのように。
「あの景色を嘘じゃなく本物にしたいって、心から思えたんだ。大切なファンを嘘つきにはしないから、待ってて」
「はい…うう、うっ、ありがとうございます…」
宿の外で待っていたローウェンさんは、さっきよりもさらに泣いて出てきた私におろおろする。
「フランシスコ・アルヴァに、何かされたんですか!?」
「違います。やらかしたのは私なのに、彼は許してくれて」
同じ過ちは繰り返さない。
そして、今よりもっと、一生応援する。




