35 やきもち(1)
「リオネル様は、動くのかな…?」
そう呟いたとき、ローウェンさんがドアを押した。
今日は食事の約束をしていたっけ?
「ティナ殿、仕事の依頼があります」
ああ、なんだ。
「お弟子さんですか?」
「いえ、古い友人のことで」
ローウェンさんの貴族学園時代の友人、ランカスター侯爵。
先の戦争で活躍した英雄だ。
「すごい人と知り合いなんですね」
剣気を扱えるくらいの上澄みなら、当然なのか。
「…ええ。彼から気になる手紙が届いて」
《私が戦争に行っている間に、クロエが母上を鞭で打っていたんだ。信じられなかったが、母に鞭の跡を見せられた。それだけじゃない。彼女は侯爵家の予算を横領して吟遊詩人に貢いでいて、財政状況を確認したらボロボロだった。クロエは否定したが、実家に返したよ。離縁の手続きを進めるつもりだ。こんな恥は、お前にしか話せなくてね》
「とんでもない悪妻ですね」
「本当だとしたら、そうなのですが」
「…本当じゃないと思うんですか?」
侯爵夫人も、ローウェンさんの貴族学園時代の同級生だ。
「彼女は不正もごまかしも嫌い、学園祭の模擬店の会計で釣銭が合わなかったときは、夜中までかかって原因を見つけ出したような人です。だから横領だなんて、とても信じられません。エドワードの母上を鞭で打つというのも、暴力的なことを嫌う彼女らしくありません。彼女は、友人が足をくじいただけで心配して泣いてしまうような人ですから」
「へえ、そうなんだ」「そういう人なんだね、侯爵夫人は」って思うだけでいいのに、なんか胸がちりっとする。
「手紙に書かれていることが事実と違うなら、誰かが侯爵に嘘をついたことになりますけど」
ローウェンさんはすっと目を逸らした。
「心当たりがあるんですね?」
「ええ、ただその人も名誉もあるので今は言えません。けれどクロ…侯爵夫人が悪事を働いているはずなどない。このままでは、きっとエドワードは後悔するでしょう」
「…行きますか」
「お願いします」
私はローウェンさんと一緒に侯爵邸に飛び、「ローウェン、手紙を読んで来てくれたのか」と声をあげた侯爵に、術をかけた。
◇
クロエを追い出して半年が経ち、離婚の承認が下りたころだった。
「クロエが死んだ」と知らせが届いた。
「ご実家にも居場所を失い、伯爵家の別邸でわずかな使用人とともに暮らしておられたのですが、罪の重さに耐えきれず…」
「そんな」
悪妻になり果てる前の、彼女の清らかな笑顔が浮かんで、心がかき乱される。
「この日記が唯一の遺品ですが、ご実家が受け取りを拒否されて。閣下もご不要であれば、焼却いたしますが」
ぱらりと日記をめくる。
《私は不正も不倫もしていない。だれがこんな嘘をエドワードに吹き込んだの?》
《お義母様のことを鞭で打ったこともない。でもエドワードはお義母様の身体に鞭の跡があったと言っていた。だとすれば、嘘をついているのはエドワードかお義母様じゃないかしら》
《エドワードは私と離婚したかったのかしら?だから私に罪を着せて追い出したのかしら。それともお義母様の自作自演かしら。そう考えたほうが納得できるわ。家計の管理だって、お義母様なら手出しできるもの。エドワードに知らせなくちゃ。あなたが嘘をついているではないなら、嘘をついているのはお義母様だって》
《エドワードから「嘘をつくな」と返事が来た。もう希望はない》
私はがたりと立ち上がった。
「そんな…クロエからの手紙なんて受け取っていない!だから返事も書けるわけがない!」
だとしたら、誰かが私の代わりにこの家の誰かが手紙を受け取って、偽の返事を書いたことになる。
「母上…なのか?」
調べたら、帳簿を誤魔化していたのは、母上だった。大金を賭博と吟遊詩人につぎ込んでいたのだ。
鞭の跡は使用人に命令して打たせてわざと作ったもので、クロエからの手紙も母上のところで止められていた。
「なんてことだ…!クロエ…!!」
クロエは、何も悪くなかった。
貴族学園時代の、優しくて清廉な、私が愛したままのクロエだったんだ。
どうして信じてやれなかった…?
クロエが浮気していると聞かされ、頭に血が上って…
そんな言い訳、今更何の役にも立たない。
「私は…なんということをしてしまったんだ」
◇
現実に戻ってきたランカスター侯爵は、手をきつく握りしめたまま、荒く息をした。
「すぐにクロエを迎えに行かないと。失礼するよ」
窓の外を覗いていると、馬で駆けだそうとする侯爵に、母親が縋りつく。
二人が怒鳴り合って、侯爵は鞘に入ったままの剣で母親を殴りつけた。
「あらま!」
「死にはしません」
「そうでしょうけど、そういう問題ですか?」
「彼女が侯爵夫人にやったことを考えれば、これくらいでは足りないくらいです」
「…侯爵のお母さんが侯爵夫人を陥れたって、最初からわかってたんですか?」
そう聞くと、ローウェンさんは「確信はありませんでしたが」と頷いた。
「婚約者時代から、きつく当たられていると、常々侯爵夫人から聞いていたので」
「侯爵閣下は知らなかったんですか」
「私は侯爵夫人に口止めされていました。『お義母様は早くに先代侯爵様を失くされ、一人でエドワードを育ててこられた。息子への愛情が人より深いのだろうから、嫁に対して厳しくなるのも頷ける』と」
「理解のあるお嫁さんだったんですね…なのに」
理解しようと努力してくれる嫁を陥れた結果が、「息子に殴られて地面に這いつくばる」か。
確かにまだ軽いな。
ローウェンさんは「『帳簿をごまかしていたのは大奥様だと思われる。彼女が逃げないように、部屋に監禁しておけ』との侯爵閣下のご命令だ」と執事に伝える。
当の侯爵はそんな命令してなかったのに、なかなかに威厳のあるローウェンの様子に、執事は反射的に「はい!」と返事をして走り去った。
「メイドたちは、クロエ…奥様がいつ戻ってもいいように、部屋を整えておくように」
「はい!」
――クロエ、ね。
また胸がちりっとなって、焦げたみたいになったところから黒い煤が広がっていきそうになる。
「…私は先に帰りますね」
「え、ティナ殿…!?」
私はローウェンさんを置き去りにして、一人で帰った。
「『クロエ』と再会を喜び合ったあとで、馬車でも馬でも自分で調達して帰ってくりゃいいじゃん」




