30 貴族学園(2)
私の腕を掴んだ男性は、「自分は生徒指導担当の教師だ」と自己紹介した。
「ローウェンさんもここに通ってたのかな」なんて思いながら、教師に案内されるがまま、生徒指導室までつながる豪華な廊下を歩く。
「とある女子生徒に未来を見せてほしい」
対象者は、問題児の二年生令嬢。
名門伯爵家の令嬢なのだが、口癖は「貴族の身分なんか捨てて、家を出たい」である。
「通う学校から結婚相手まで、すべて親に決められるのは苦痛だと」
「…理解できなくはないですね」
進路や結婚相手を親に決められるのは、貴族なら当たり前。
とはいえ、息苦しいだろう。
「けれど身分まで捨てたいとは極端ですね。何か理由があるのでしょうか」
「何かのきっかけで、売れない画家と知り合って恋仲になったらしい。しかしお父上である伯爵に、結婚を認めていただけるわけもなく」
「…そういうことですか」
夜な夜な寮を抜け出して画家のところへ通い、金銭的に援助をしたり、絵のモデルになったりしているのだと言う。
まるで、父の感情を逆撫でして、勘当されるのを待っているかのように。
「寮監と寮長で見張りを強化してはいるが、『彼に会えないのならば死ぬ』などと彼女たちを脅して、抜け出してしまうんだ」
「熱烈な愛ですね」
「そんなきれいな言葉で表現していいものかどうか。彼らの関係が愛かどうかも怪しい」
教師はため息をついた。
「若く実績のない画家はえてして貧しく、支援してくれるパトロンを求めている」
「彼が彼女に求めているのは金だと?」
「おそらくは。何度そう言っても、『先生もお父様と同じで、愛を理解しようとしていない』と返されて」
「生徒指導室」と書かれたドアを開けようとする彼の手を、そっと制する。
「念のためにもう一回言います。先生やお父さんの思うとおりの未来を見せられるとは限りませんよ」
教師は「わかっている」と頷いた。
「いらぬ心配だったなら、それでいい。けれど彼女が本当に貴族の身分を失ってからでは、取り返しがつかないから」
「…わかりました」
ドアの向こう、生徒指導室の椅子に不機嫌な表情で座っている女子生徒に、私は術をかけた。
◇
アントワーヌが私をモデルにした「裸の女神」をコンクールに出品したら、それがお父様の目に触れた。
「甘やかして許してきた結果がこれか…!貴族の娘が人前で肌を晒すなど!」
お父様は烈火のごとく怒った。
「この画家に相当貢いだようだな。騙されているとも知らずに…」
「彼は私を騙してなんていないわ!私を愛してくれているの!結婚しようって言ってくれて…」
「本当にお前を愛していて結婚したいなら、金銭の要求などしない。売れない画家なんて辞めて、お前を養える仕事に就こうとするはずだ。まともな人間なら、愛する人を利用するのではなく、守りたいと思うはずだからな」
「お父様はいつだってそうやって決めつけて、私の人生を縛るのよ!もううんざりだわ!」
「…これだけ言っても、わからないか」
「わかってないのはお父様よ!」
そうやって、勘当された。
お母様はひたすら泣いていたけれど、私はせいせいした。
これで堅苦しい貴族の世界とも、「あれをしろ、これはするな」と始終口を出してくるお父様ともさようなら。
「アントワーヌ、私たちずっと一緒にいられるわ!一日中、一年中!」
「そうだね、ハリエット」
「だけど本当に、伯爵令嬢の身分を捨てたの?」と彼は心配そうに聞いたけれど、大丈夫。
私を縛る家から自由になって、本当に愛する人と一緒にいられることが、何よりの幸せだから。
お母様とお姉様がこっそり持たせてくれた宝石を売りながら、生活する。
「ハリエット、新しい画材が出たんだ。どうしても試してみたいんだよ」
「わかったわ」
「気鋭の画家が集まるサロンに入会して、顔を売りたいんだ」
「ええ、まだ宝石は残っているから大丈夫よ」
「個展を開くために、画廊を借りたいんだ」
「じゃあ…ドレスを売るわね」
そうやって、何も売るものがなくなったとき…
彼は「新しいミューズを見つけた」と、貴族の未亡人のもとで暮らすようになった。
「どうしてなの、アントワーヌ!?」
「君からはもうインスピレーションを得られない。それに彼女は素晴らしいアトリエを用意してくれたんだ。あそこなら思い切り絵を描ける」
悪びれもせず、感謝も謝罪もせず、うきうきと荷物をまとめる彼を見て、ようやく気付く。
彼が求めていたのは、絵を描ける環境と、文句を言わずに支える女。
私にその力がなくなったから、あっさりと捨てるのだ。
お父様の言葉が、正しかった。
お父様はこうなることをわかっていて、厳しい言葉で、私を守ろうとしてくれていたのだ。
「お父様…ごめんなさい…」
私が愛していた人は私を愛していなくて、守ってくれる気もなくて、それに気づいていなかったのは私だけで。
私は、本気で私を守ろうとしてくれた人を、自分で捨てて。
だけど自分一人で生きていく術もなくて。
「怖い…」
◇
問題児は呆然と目を開けた。
「どうでした?」
「お父様が正しかった…」
令嬢は俯いて、それから教師に向き直った。
「ご迷惑をおかけいたしました。もう寮を抜け出すことは止めます」
「…それはよかった」
親の言うことに、すべて従う必要はない。
だけど「なぜ親がそう言うのか」は、考えてみたほうがいい。
決めつけや束縛に思えることでも、愛情や心配から来ていることもあるから。
◆
「失わせ屋」に帰ってくる。
もう夕方だけど、まだ時間はある。
私は庭で何本か花を摘んできゅっとリボンをかけ、歩いて町のはずれにある墓地に向かう。
「おばあちゃん、来たよ」
親を亡くした私を引き取って、育ててくれた祖母。
《ティナには魔力があるから、魔導士になるのはどうだい?》
《私が魔導士になったら、おばあちゃんは嬉しい?》
《もちろんだとも。魔導士は魔法で人を助けてあげられる、いい仕事だからね。働く先にも困らないよ》
そう言って、「いい師匠を見つけた」と、あの破天荒師匠のところに弟子入りさせてくれた。
湖に沈められたり燃え盛る小屋に閉じ込められたり、そんな厳しい修行のときには、「魔導士になれ」と言ったおばあちゃんと、それに従った自分を恨んだこともあったけど…
「おばあちゃんの言葉に従ったこと、後悔してないよ」
今ならわかるから。
祖母は、私がよりよい人生を歩むために、魔導士の仕事を勧めてくれたのだと。
平民でも、女でも、おばあちゃんが死んだあとも、困らず生きていけるように。
実際にそうなっているのだし、魔導士になったからこそ出会えた人もいて、今ここにいて、人の役にも少しは立てて。
「魔導士にならせてくれてありがとう、おばあちゃん」
きっと私には、おばあちゃんの言うことを聞かないで、師匠のところから逃げ出して、魔導士にならない人生もあったんだろう。
もしかしたらそっちのほうが、幸せだったかもしれない。
そうだとしても…
「やっぱり感謝してるよ」




