20 後悔する結婚(2)
ダイアナさんのお姉さんが「あの子、結局出戻ってくるのかしら」とふらふらと出て行ったあと、ノックの音がした。
ということは、やってきたのは貴族か貴族に仕える誰かだ。
だってこのあたりの住民は、ノックなんてせずにドアを開けるのだから。
「どうぞ、いらっしゃい」と私がドアを開けると、眼鏡の若い男性がちょっと身を引いた。
「こちらが『失わせ屋』で間違いないでしょうか」
「ええ」
彼はとある侯爵令息の従者。
主人が婚約者を捨てようとしているのを、止めたいのだと言う。
「クレームになったら嫌なので先に申し上げますが、そもそも浮気して婚約破棄を考えるような人の場合には、未来を見ても破滅…いや破局するケースも多々ありますよ」
従者は「浮気ではありません」と首を振った。
彼が仕える侯爵令息は、高位貴族の嫡男として、「常に家を第一に考えよ」という教育を受けてきた。
そのため「侯爵家にとって価値があるかどうか」という基準で女性を見るようになり、条件に合致した「裕福で優秀で多産家系の伯爵令嬢」と婚約した。
条件だけで選んだ婚約者ではあったものの、幸い性格の相性もよく、二人は周囲が驚くほどに仲良く過ごしてきた。
「プリシラ様は明るくて優しくてユーモアのセンスもある方です。そのおかげで、いつだって張り詰めたような顔をしていたエイド様が、大きな口を開けて笑われるまでになったのです…!エイド様があんなに幸せそうなお顔をされるようになったのは、プリシラ様のおかげなんです」
従者は嬉しそうな顔をしたあとに、唇を噛んで拳を握った。
「けれど、プリシラ様のご実家の事業が、急激に傾いてしまいまして」
「…結婚のうまみが減ってしまったと?」
「ええ」
令息は「侯爵家嫡男としての行動原理」に従い、貧乏令嬢になった婚約者を切り捨てて、別の令嬢と婚約しようとしている。
「でも、そんなことをしたらエイド様は絶対後悔します。プリシラ様には、お金や侯爵夫人としての利用価値に換えられない、プリシラ様だけがエイド様にもたらせる価値があるはずですから」
貴族として考えたら、令息の行動は理にかなっていて、従者の主張は家の利益に反するものではないだろうか。貴族じゃないから知らんけど。
なんとなく腑に落ちないものを感じるけど、頼まれたらやるだけだ。
移動魔法オプションをつけてもらい、侯爵邸に飛ぶ。
そして無表情で書類から目をあげた侯爵令息に、術をかけた。
◇
プリシラに婚約破棄を告げたら、彼女は黙って小さく頷いた。
バラ色の頬を、涙が伝っていく。
「今までありがとうございました。エイド様と一緒に過ごせて、とても幸せでした」
「私もだ」
幸せだった。この幸せが続くのだと思っていた。
けれど彼女は持参金もろくに用意できなくなってしまったのだ。仕方ない。
そうして私は、結婚相手の条件に合致する別の令嬢と結婚した。
侯爵家にとっても私にとっても、こうすることが当然で、正しいはずだ。
けれど、笑えない。安らげる時間もない。
プリシラとなら、笑って話せるのに。嫌なことがあっても、プリシラと話しているうちに忘れてしまうのに。
どうしてプリシラ以外とは、そうならないのだろう。
妻のことが嫌いなわけでは、決してない。
大切にしようと思うのに、どうしてだか距離ができていく。
妻の侍女に話を聞いてみると、言いにくそうに「旦那様が、プリシラ様のお名前を寝言で呼んでおられたことがショックだったそうで」と伝えられる。
謝ろうとしたけれど、「どうせ私は条件に合致しただけの、都合のいい結婚相手です」とそっぽを向かれてしまった。
「旦那様はまだプリシラ様を想っておられるのでしょう」
「いや、私は忘れようとしているんだ」
「忘れようと努力するのはご立派ですけれど、旦那様がその努力をされている時点で、私はプリシラ様に負けているのですわ」
妻は踵を返して、去っていく。
妻を追いかけなくてはいけないのに、頭に浮かぶのはプリシラのことばかりだ。
――正しい選択をしたはずなのに、間違っていたのか?
妻は別邸に移ってしまい、父からは苦言を呈され、私は仕事に集中できない。
頭がぼんやりして、同じ決裁書類を三度も読み返しているのに、判断を下せない。
「あんなに優秀だった若旦那様が、どうしてしまったんだろう?」
「眠れていないようだよ」
「別邸にいる奥様も塞いでおられるようだし、この家、どうなっちゃうのかしら?」
すべてが、うまくいかない。
そして、プリシラの父が懇意にしていた伯爵家の夜会。
プリシラを見かけて、思わずテラスまで後を追って、はっと立ち止まった。
彼女が、知らない男といる。
「プリシラ嬢、私と結婚していただけませんか」
「お申し出はありがたいのですが、私は貧乏です。持参金も用意できません」
「貧乏でもいいんです。私はそれでもあなたが好きなのですから。あなたといると心が温かくなって、もっといい自分になれる気がするんです」
彼女がどう答えるのか知るのが怖くて、私は踵を返して逃げた。
《貧乏でもいいんです。私はそれでもあなたが好きなのですから》
「私だって、そう思っていたんだ」と、今更気づく。
もし私も、言葉にできていたら…
プリシラを泣かせることも、何も悪くない妻を不幸にすることも、なかったのに。
◇
「ただ素直に、そう言えていたら…」
呟きながら、令息は現実に帰ってきた。執務室の椅子に沈み込む。
「エイド様、今見たのは未来シミュレーションです」
「…そうなのか」
「まだエイド様とプリシラ様は婚約されています」
「そうか」
令息は机の上にあった書類に手を伸ばした。
プリシラ嬢の実家に婚約破棄を要請する手紙と、必要書類。
それをぎゅっと握りつぶす。
「父上に、話をしてくる。私はプリシラを失うわけにはいかないと」
そう言って彼は走り出す。
「私には彼女が必要だ!なんとしてでも説得しないと」
選び直した未来でも、また別の後悔が待っている可能性はあるけど、それも彼の選択だ。
◆
家に帰ってきて、「結婚って難しいんだね」と息を吐く。
何を基準に選んでも、正解かどうかわからないんだから。
からんと鈴が鳴って、巨匠が顔を出した。
「どうした、考え込んで」
「結婚の正解って、何なのかなって」
「哲学的じゃな」
「巨匠は結婚してるの?」
「してた、じゃな。いや、今もしてるのか…?」
「待って、自分が結婚してるかどうかわからないの?」
若いころ、絵のモデルをしてくれていた女性と結婚したものの、彼女が別の画家のもとへ走り、それ以来会っていないと巨匠は言った。
「離婚の手続きをした記憶がないから、書類上まだ結婚しとるんじゃないかな」
「大丈夫なの、それ?」




