19 後悔する結婚(1)
からんと鈴が鳴る。
「妹が、結婚を約束した相手を捨てて駆け落ちしてしまいそうだ」と、お客さんは絞り出した。
彼女の妹ダイアナさんは、パン屋のトムさんと結婚の約束をしていて、すでに「未来のおかみさん」としてパン屋を手伝っている。
「美味しいですよね、あのパン屋さん」
「そうなの。トムは研究熱心だし素材にもこだわってて、別の町に支店も…って、聞いてほしいのはそこじゃなくて」
「ずっと好きだった」と幼馴染のトムさんにプロポーズされ、お姉さんたちの「真面目な働き者で一途だなんて最高」という声に背中を押されて婚約したダイアナさん。
婚約当初こそ「トムは私を大事にしてくれる」とのろけていたが、次第に「穏やか過ぎて刺激のない毎日」と「大してタイプではない婚約者」にうんざりし始めた。
「そこにやってきたのが、奴らなのよ」
国中を回って流行の演劇を披露する、旅一座の俳優たち。
その看板俳優がパンを買いに来て、ダイアナさんを気に入り、あの手この手でアプローチしてくるようになったのだという。
「店の奥にはトムがいるってのに、ロマンス劇そのものみたいな甘ったるいセリフでダイアナに迫るらしいの!しかもそれをダイアナも自慢げに話すんだから!」
挙句の果てに、ダイアナさんは「駆け落ち」という言葉を出し始めたのだという。
「旅一座はもうすぐ別の町に移動するじゃない?そのときについていくつもりらしくて…」
「一時の気の迷いで、堅実な幸せを捨てるな」と諭しても、「だって、顔が最高に好みの人と結婚できて、毎日ときめけるのよ」の一点張り。
《トムは働き者だけど、顔も体型も全然タイプじゃないもの》
《顔さえよければ、たいていのことは…ちょっとくらい貧乏でも不安定でも、許せるはず。むしろ愛し合う二人に降りかかる苦難は、スリルだわ》
《喧嘩しても、『怒ってる顔もかっこいい』なんて思えちゃうわ》
お姉さんはダイアナさんのセリフを紹介し、「恋に恋して正気を失ってるでしょ?」と頭を抱える。
「『顔で飯が食えるか』って言いたいけど、確かにあの男は顔で飯を食ってるのよね。でも旅一座の俳優なんてあまりに不安定すぎるわ。旅は危険だし、人気は水物でしょう」
ちなみに旅一座の俳優が、各地で女遊びをするのは周知の事実。
冷静に…いや普通に考えると、ダイアナさんは遊ばれているに過ぎない。
「このまま本当に駆け落ちしてしまったら、後悔するに決まってるわ。だからお願い」
私は立ち上がってパン屋に向かう。
「帰りに明日のパンを買おうかな」と、未来シミュレーション代として受け取ったお金を握りしめて。
いい匂いの充満するパン屋では、ダイアナさんが気だるそうにパンを並べている。トムさんは奥で作業中のようだ。
駆け落ちを企てているとは思えない何食わぬ顔で「あら、いらっしゃい」と発したダイアナさんに、私は術をかけた。
◇
私は夫を捨てて、俳優のコリンについていった。
身を焦がすような恋って、こういうことなんだもの。
「あなたが好きなの。つれていって」
「おう。じゃあ尽くしてくれよな」
コリンは人気があってそれなりに稼いでいるはずだけど、お客さんからもらうチップなんかは全部「後輩に奢らなきゃ」なんて使い切ってしまうから、生活は厳しい。
でもそういう、豪快でケチとは程遠いところも好き。
好きだから、私は行く先々で「農家やパン屋の手伝い」「行商」「女給」などをして稼いで、彼を支える。
生活が苦しくても、大好きな彼の顔を一番近くで見られるんだから、我慢できた。
彼が私の稼ぎを酒につぎ込んでも、ギャンブルで溶かしても、平気だった。
ちょっと眉を下げて「ありがとう、ごめんな」ってキスしてくれたら、全部許せた。
けれど一年くらいで、どうにもこうにも、辛くなってきた。
働いても働いても、彼はすぐにお金を溶かしてくる。
自分の服や靴が破けても、買い替えるお金もない。
そのうえ彼は、私の稼いだお金で、別の女にプレゼントを買って渡してて…
もう我慢できなくなった。
責め立てたら「金離れのいい女なんだ。『こんなきれいな女、初めて見た』とか言って機嫌とっときゃ、貢いでくれっから」という返事だった。
《こんなきれいな女、初めて見た》
それは、彼がパン屋のカウンターにもたれかかりながら私に言ったセリフと、まったく同じ。
――彼は、女を食い物にして生きている。
そして私も、食い散らかされた女の一人に過ぎないんだ。
特別なんかじゃなかった。
見た目のいい彼に言い寄られて、舞い上がって。
優しいトムと、平凡だけど堅実で何不自由ないはずの結婚生活を捨てて。
破れたシーツしかない臭い宿で、つぎはぎだらけの服を着て、穴の開いた靴を履いて、浮気されて。
「何してるんだろ」
次の日の朝、私は別れの手紙を残して宿を出て、町に戻った。
「ダイアナ…!?帰ってきたのか?」
「トム、ごめんなさい!私、やっぱりあなたとやり直したい」
そう謝ると、トムは気まずそうに目をそらす。
パン屋の奥、家とつながるドアから、一人の女性が姿を現した。
「どなた?」
彼の隣に、私の場所は、もうなかった。
《一時の気の迷いで、堅実な幸せを捨てちゃだめよ。絶対後悔するわ》
お姉ちゃんの言葉が、蘇った。
◇
ダイアナさんはゆっくりと目を開ける。
「お姉ちゃん…これ、未来シミュレーションなの?」
「そうよ。あんな男と駆け落ちなんてだめだって、わかったでしょ?」
ダイアナさんはこくこくと頷いて、お姉さんはほっと息を吐いた。
「カプセルは要りますか?」
「いいえ、大丈夫だと思うわ。ごめんなさいね」
「いえ、いいんです」
私はまだ震えているダイアナさんから、明日のパンを買って帰った。
◆
けれど翌朝、ダイアナさんは俳優たちと一緒に、姿を消した。
《よく考えたけど、やっぱり顔が好き。こんな気持ちでトムと結婚しても後悔する。浮気されないようにもっと尽くせばいいし、お金がなくならないようにもっと働けばいいだけだと思う。冴えない男と結婚して満足してるお姉ちゃんにはわからないだろうけど、わからないならわからないでいいから、邪魔はしないで》
そんな手紙を残して。
ふらふらと店にやってきたお姉さんは、「『よく考えた』なんて!本当によく考えたんなら、あんな未来を見たあとで、駆け落ちなんてするわけないでしょ!?」とまた頭を抱える。
「いろんな人がいますから」
「…トムにどう謝ればいいの?」
「選んだのはダイアナさんです」
それにトムさんにしたって、「相手が自分を捨てて駆け落ちまで考えていたこと」を知らずに結婚しちゃうのも、どうかと思うしね。
それにあの調子じゃ、結婚してからも別の男のところに走ってたかもしれない。
「トムさんにとっては、むしろよかったかもしれませんよ」




