18 仕事人間たち(2)
旅行に行く家族と遭遇したあと、買い物を済ませて家兼店に戻ると、薬屋の店主が待っていた。
「うちで働いてくれてるテレサのことなんだが、このままじゃ心配で…未来を見せてあげてほしくて」
おや、また「上司」からの依頼だ。
自分の経験からは信じがたいことだが、もう認めざるを得ない。
世の中には「部下思いの上司」という人種も相当数存在するのだと。
その店主曰く、テレサさんは優秀な薬師。
私と同じ、二十五歳。
私と同じ、この国のこの時代における完璧な「行き遅れ」である。
店主曰く、常々周囲の友人たちより結婚が遅いことを気にしていたテレサさんは、結婚紹介所に登録した。
首尾よくお相手が見つかり、このほど結婚する運びになったのだが…
「お相手が『俺が稼いでやるから、女は家にいろ』っていうタイプでね」
「でも、まあ…」
利害が一致するなら悪くはない。働きたくない女性にとっては、いい夫だ。
「それはそうなんだが、テレサは優秀な薬師だ。専門性の高い仕事と、みんなに頼られていることに、やりがいを感じていると思うんだ。結婚はおめでたいが、それと引き換えに誇りをもっている仕事を辞めることになったら、彼女にとって本当に幸せなのか心配でね」
「『テレサに辞められたら困る』という気持ちも、ないわけじゃないんだが」と店主は頭をかく。
「新しい薬草や調合方法は次から次に出てくる。使っちゃいけない薬草とか、飲み合わせとか、法律もころころ変わるしねぇ。ブランクができてしまうと『戻りたくても戻れない』になりかねないんだよ」
「やっぱり戻りたい」と思っても取り返しがつかなくなるから、「本当に今彼と結婚して幸せになれるのか」を立ち止まってもう一度考えてほしい、と。
「それでも結婚が幸せだと彼女が言うのなら、もちろん祝福するけれど」
「わかりました。納得して結婚してもらうために、行きましょう」
私は店主と一緒に薬屋へと向かい、真剣な表情で薬草をすり潰していたテレサさんに、術をかけた。
◇
「ただいま」
「おかえりなさい」
「これ、結婚一周年のプレゼント。いつもありがとう」
「まあこれ、あの店の…!?いつも並んでいるから、買うのが大変だったんじゃない?」
「テレサのためなら、これくらい」
「すごく嬉しいわ、ありがとう」
堅実で穏やかで、優しい夫。
これが幸せに違いない。
「今日は何してた?」
「いつも通りよ。掃除、洗濯、買い物、それにご飯の支度」
毎日同じことの繰り返しでも、絶対に、幸せなはずだ。
「俺は以前担当した人がお礼を言いに来てくれてね…菓子を差し入れしてくれて…」
「そうなのね」と夫の話に頷きながら、なぜか心に虚しさが溜まっていく。
私だって一年前までは、お客さんに感謝されて、差し入れだっていっぱいもらっていたのに。
ふと、本棚の端にある薬草の図鑑に目がいく。
結婚するとき、夫から「俺が稼ぐ。女が結婚してまで働くもんじゃない」と言われて、調剤に使う道具はすべて処分した。
それでいいと思っていた。
女で、二十五歳にもなって、いつまでも仕事ばかりしている自分がおかしいのだと…
周りの友達だって、結婚して仕事を辞めているんだから、これが普通だと…
そう、自分に言い聞かせていた。
それでも、初めての給料と一緒に上司からもらったあの図鑑だけは、捨てられなかった。
《テレサ、お前がいてくれないと、うちの店は回らないよ》
《テレサさん、この間の風邪薬、本当によく効いたよ。ありがとうね》
《テレサさんがお薬を変えてくれてから、おばあちゃんの様子が見違えるようなの!膝の痛みがすっかり消えたって言って、よく散歩するようになったのよ》
心に残っている言葉たちも、お礼を言われたときに感じた誇らしさも、決して消えない。
《テレサ、本当に仕事を辞めてしまっていいのかい?薬師は君の天職だと思うんだが…》
《いいんです。仕事は好きですけど、やっぱり結婚のほうが大切ですから。親を安心させたいですし、友達の中で肩身が狭いのも、もうこりごりなんですよ》
本当に結婚のほうが大切だった?
だって私は仕事が大好きだったのに。
本当に大好きだったのに…
「結婚しなければ」という焦りに駆られて、私は天職を捨ててしまった。
仕事を辞めることは承知して結婚したんだから、今さら「また働きたい」なんて言い出せない。
――すべての家事をいつも通りに終えて、夫の帰りを待つ家。
私はただ、自分の中から何か大切なものが引き抜かれてしまったような、そんな虚しさだけを嚙みしめた。
◇
テレサさんは、ついと涙を流しながら、現実に戻ってきた。
「あれ、私、家にいたはずで…」
「今テレサが見たのは、未来シミュレーションだよ」
「ああ、これが噂の…」
「未来はどうだった?」
「このまま結婚して仕事を辞めて、本当に大丈夫かい?」と、店主が聞く。
テレサさんはふるふると首振った。
「仕事を離れた自分は、まるで自分じゃないみたいで…」
すり鉢から手を放して、涙を拭う。
「結婚しても、薬屋のことばかり思い出していたんです。農家のおばあちゃんは大丈夫かな、あの子は熱を出していないかなって」
テレサさんは「彼と話し合ってみます。結婚しても仕事は続けたいって。それが私の望む結婚だって」と、涙交じりに笑った。
「彼のことは好きだけど、嫌な顔をするなら…我慢して彼に合わせても、きっと幸せにはなれないから」
店主は、ほっとしたように、深いため息をつく。
「うちも助かるよ。テレサほど腕がよくて、お客さんに慕われる薬師は貴重だからね」
「…そう言ってもらえて、嬉しいです」
◆
後日テレサさんからは「彼とは別れた。今はまた結婚紹介所に相手を紹介してもらって、デートを重ねているところだ」と手紙が届いた。
《早く結婚して幸せにならなきゃって思ってました。だけど結婚することだけが幸せじゃない。それに結婚してない今までだって、実は幸せだったんだってわかりました。だから私は、「幸せを追加するため」に結婚できたらいいなと思います。ありがとうございました》
「幸せ…か」
私は今、幸せなんだろうか。
そんなことを考えながら、畑で採れたスイカにナイフを入れる。
シャリっとした触感と、甘い汁が口に広がる。
「夏はやっぱこれだよね。幸せ~」




