17 仕事人間たち(1)
からんと鈴が鳴ってドアが開いた。
ぱりっとした服装の、初老の男性だ。
「部下に未来を見せたくて」
彼が未来を見せたいのは、仕事人間な部下なのだと言う。
「仕事はとてもよくできて、他の人が気づかないようなところまで気がつき、新しいアイデアを出してくれるんです」
「いい部下ですね」
「ええ。ただ『早く帰りなさい』といくら言っても、いつも残業していて心配なんです」
これはまた。私の元上司とは正反対の、いい上司じゃないか。
「部下の体調が心配ですか?」
「それもありますが、先日世間話をしていたときに驚きまして」
その部下は仕事熱心すぎて、家族との時間がほとんどないのだという。
「残業だけじゃなく、私に黙って休日出勤もしていたらしくて…そのせいで平日も休日も子どもと食卓を囲むことがないと言うんです。家族旅行も、自分は不参加だと言うんですよ!まったく!」
「仕事熱心なのは感心するが、家庭を疎かにしてまで働いてほしいわけではない」と上司は言う。
「子どもと一緒に食卓を囲んで笑いあったりするのは、今しかできないことだぞ。子どもと一緒に旅行に行けるのだって、人生であと何回あるか」と諭したが、本人はぴんと来ていないらしい。
「この年になって思うんです、もし昔に『今この瞬間』の大切さに気づけていたら、子どもたちと過ごせる貴重な時間を、もっと濃いものにできたんじゃないかって」
「同じ後悔をしてほしくないんですね」
「ええ」
つくづく、いい上司じゃないか。
「じゃあこれを読んでサインを」
私は彼の職場に向かい、机にしがみついて資料とにらめっこしている男に、術をかけた。
◇
がむしゃらに働いてきた。
自分のため、そして家族のため。
仕事を頑張ってお金を稼ぎ、家族にお金の心配をさせないことが、自分なりの愛情だと思ってきた。
そして家族もそれを理解してくれていると、そう思っていた。
だから一緒に食卓を囲むことがなくても、子どもの寝顔しか見られなくても、それでいいのだと。
わかってくれているから。
ある夜、いつもの通り家に帰って、寝る前に子どもの顔を見ようと、子ども部屋のドアを開けた。
二人の娘たちは、まだ起きていた。
「勝手に入ってこないでよ!」
「そんなことより、まだ起きてるのか。もう十時だぞ」
「まだ十時だもん」
「子どもは早く寝なさい」
「子どもって…何歳だと思ってるの」
明るい部屋でよく見たら、随分大人っぽくなった娘たちの顔。
そうだ、もう十六歳と十五歳になったのだ。
「もう年頃だから、勝手に入るのはやめてあげなきゃ。私だって勝手には入らないわよ」と、妻にもたしなめられる。
それから、娘たちの顔を見ることは、ほとんどなくなってしまった。
寂しい。
ようやく仕事をリタイアして、「子どもと話せる」「一緒に旅行にも行ける」と思ったが、誘ってもよそよそしい態度をとられてしまう。
「どうしてだ」
「お父さんのこと、嫌いなわけじゃないよ。でもお父さんはずっと家にいなかったから、まるで他人みたい」
「そんな…」
「旅行に行きたいなら、一人で行ってきたら?行ったことないでしょ。家族旅行も来なかったもんね。おじいちゃんがお父さんの代わりみたいだったもん」
ショックだった。
娘たちのために、懸命に働いてきたのに。
「俺が…俺が働いていたおかげで、生活できていたんだぞ。旅行だって、俺が金を出して…」
娘たちは顔を見合わせる。
「そうかもしれないし、お金に苦労せず育ててくれたのは感謝だけど…」
「お父さんと過ごすことに慣れてないんだから、いきなり『仕事を辞めたから一緒に』なんて言われても無理だよ」
「そう。旅行だって、お金は出してくれたかもしれないけど、お父さんは来なかったじゃない」
上司の言葉が、思い出される。
《仕事は大事だ。でも子どもと過ごす時間だって同じくらい、いや、もっと大事だぞ》
《今の子どもと一緒にいられるのは、今しかない。子どもを抱っこできるのも、お互いに照れずに愛情を伝えあえるのもな。時間が巻き戻せない以上、やり直しがきかないんだ。きっと後悔するぞ》
――そういう、ことだったのか。
◇
未来を見て現在に帰ってきた部下は、そっと目を開けた。
「そういうことだったんですね、部長」
「わかってくれたようだな」
「今からでも間に合うなら…休暇を、いただいてもよろしいでしょうか」
上司は嬉しそうに頷いた。
「もちろんだ。思い立ったが吉日だから、今日はもう帰りなさい」
◆
次の日、町を歩いていると、あの部下と家族を見た。
部下は大きな荷物を手に持ち、奥さんとまだ小さな二人の娘たちが彼の隣を歩いている。
幻影ではもうすっかり大人びていた娘たちは、今はまだ七歳と八歳くらいだろうか。
「お父さんと旅行に行くなんて初めて!」
「ねえ、汽車に乗るの?馬車に乗るの?」
「どっちもだよ」
「湖でボートに乗れる?」
「ああ、漕いでやろう」
「わぁい!」
ぴょんと跳ねた娘が、「お父さん大好き!」と笑う。
「…ありがとう。お父さんもキアラとソニアのことが大好きだよ」と応える声は、震えていた。
「いい上司がいて、よかったね」




