【限定SS】後日談
藤堂家が崩壊し、学園からあの「親友」の影が消えて半年。
佐藤湊の日常は、驚くほど静かだった。学園の成績は不動のトップ。九条グループの支援を受けた彼は、学生ながらも実業界に人脈を持ち、
周囲からは「若き知性」として畏怖の混じった羨望を集めている。
だが、放課後を告げるチャイムが鳴ると、彼の「役割」は変わる。
向かう先は、学園近くにある高級マンションの一室。そこは九条家から提供された、世間から隔離された彼だけの聖域であり、一人の女を閉じ込めた「檻」でもあった。
「おかえりなさい、湊くん」
玄関を開けると、そこには結衣がいた。
かつての派手な装いは影を潜め、湊の好みに合わせた、清潔感はあるがどこか人形じみた白いワンピースを纏っている。彼女の瞳には、かつての快活さは欠片もない。
ただ、湊という絶対的な太陽を見つめる、
ひまわりのような盲目的な熱だけが宿っていた。
「ああ。……結衣、言ったはずだ。勝手に出迎えなくていいと」
湊は彼女を見ようともせず、コートを脱ぎ捨てる。
「だって、少しでも早く湊くんの声が聞きたかったの。
……今日は、何があったの? 誰と話したの?」
結衣が湊の腕にすがりつく。
その指先が微かに震えているのを、湊は知っている。
彼女は今、湊に捨てられれば、実家の会社も自分自身の存在意義もすべて霧散するという恐怖の中で生きている。しかし、その恐怖はいつしか、ねじれた「快感」へと変貌していた。
◇◆◇
湊はソファに深く腰掛け、差し出されたコーヒーを一口啜る。
「……苦いな。次は砂糖を増やせ」
「ごめんなさい! すぐに淹れ直すわ!」
慌ててキッチンへ向かおうとする結衣の手首を、湊は冷たく掴んだ。
「いい。座れ。淹れ直す時間が無駄だ」
「……っ、うん。ごめんなさい……湊くん」
湊の冷徹な言葉ひとつひとつが、結衣の心に深く刺さる。
かつての湊なら、苦ければ「少し苦いね」と笑って許してくれた。
熱ければ「熱いから気をつけて」と気遣ってくれた。
今の彼は、結衣を人間として扱っていない。便利な家具か、
あるいは壊れかけた愛玩動物を見るような、そんな無機質な視線。
だが、結衣にとってその「冷たさ」こそが、
自分が今、湊の所有物であるという唯一の証明だった。
「湊くん、もっと……もっと叱って。私、また失敗しちゃったから。
あなたの期待に応えられない、ダメな女だから……」
結衣は膝をつき、湊の膝に顔を埋める。
「……蓮のことを思い出していたのか?」
湊が低く、地を這うような声で囁く。
「違う! 違うの! あの人のことなんて、もう1秒だって考えてない! 私が考えてるのは、湊くんのことだけ。湊くんにどうやって償えばいいか、それだけなの!」
「なら、その醜い鳴き声を止めろ。耳障りだ」
湊は結衣の髪を乱暴に掴み、無理やり自分を見上げさせた。
その瞳には、かつてのような愛情は一切ない。
あるのは、復讐を完遂した男の空虚さと、それを埋めるための支配欲だけだ。
◇◆◇
結衣の愛は、もはや正常な軌道を外れていた。
彼女は、湊が自分に対して冷酷であればあるほど、「自分はまだ彼に罰を与えてもらえるほど、特別な存在なのだ」と思い込むようになっていた。
ある日、結衣は自分の腕に小さな傷を作った。
湊が帰宅した際、それに気づいてほしくて、わざと絆創膏を貼らずにいた。
「湊くん、見て……少し怪我しちゃった」
湊は結衣の腕を一瞥し、鼻で笑った。
「包丁でも滑らせたか。注意力が散漫なんだよ、お前は。
……それで、俺に何を求めている? 同情か? それとも、慰めか?」
「違うの。ただ、湊くんに見てほしくて……」
「無意味だ。お前が傷つこうが死のうが、俺の知ったことじゃない。お前の価値は、俺の隣で『幸せそうな幼馴染』を演じ続け、俺の復讐の成果を誇示することにある。……傷を作って価値を下げるな」
冷たい。氷よりも冷たい言葉。
結衣は、その言葉にゾクゾクとするような昂揚感を覚えた。
(ああ、湊くんは私の「価値」を気にしてくれている。私の体が、彼の「持ち物」だから、傷つくのを嫌がっているんだ……!)
脳内で都合よく変換される絶望。
彼女は湊の足元に縋り付き、靴を舐めるような勢いで懇願した。
「……ごめんなさい、湊くん。もう二度と自分を傷つけない。あなたの許可なく、
血の一滴も流さない。だから……だから、私を置いていかないで……!」
「……気持ち悪い女だ」
湊は冷たく吐き捨てたが、その口角はわずかに吊り上がっていた。
彼もまた、歪んでいた。
自分を裏切り、親友と睦み合っていた結衣が、いまや自分の足元で泥を啜るように愛を乞うている。その光景が、彼の乾いた心に唯一の「潤い」を与えていた。
◇◆◇
夜、寝室。
湊は結衣を抱くことはない。
ただ、同じベッドに横たわり、背中を向けたまま眠りにつく。
結衣は、その背中に触れることさえ許されない。ただ、彼が吐き出す二酸化炭素を吸い込み、彼の体温を遠くに感じることだけが許された贅沢だった。
「ねえ、湊くん……起きてる?」
「……黙れと言ったはずだ」
「ふふ、ごめんね。
……ねえ、蓮くんが少年院で自殺未遂をしたってニュースで見たよ」
湊の体が、僅かに反応した。
「……そうか。死ねなかったのか」
「うん。……ねえ、湊くん。私ね、あの人のこと、本当に恨んでるの。あんな人に誘惑されて、あなたを傷つけた自分が一番許せないの。……だから、私が死ぬまで、あなたが私を罰し続けてね。絶対に、逃がさないでね」
結衣は、暗闇の中で湊の背中に向かって、狂気に満ちた微笑みを浮かべた。
彼女にとっての「復讐」は、湊に永遠に嫌われ、
永遠に支配され、永遠に彼の視界を独占することだった。
愛されることが叶わないのなら、憎しみの鎖で自分を縛り付けておいてほしい。
湊はゆっくりと寝返りを打ち、結衣の首に手をかけた。
絞めるわけでもなく、ただ、獲物の生死を確認するように。
「……逃がすわけないだろう。お前は、俺の人生を壊した代償なんだ。
優しい俺はもう殺した。地獄の果てまで、俺の所有物として連れて行ってやる」
「……あは。……嬉しい」
結衣は、湊の手を自分の頬に擦り寄せ、幸福そうに目を閉じた。
一人は復讐の虚無に。一人は依存の狂気に。
二人は、かつて夢見た「幸せな結婚」とは程遠い、だが誰よりも強く結ばれた
「共依存という名の地獄」へと、ゆっくりと沈んでいく。
外では、夜の街が静かに明けていく。
だが、この部屋に光が差し込むことは、二度とない。
ここは、壊れた少年が作り上げた、
壊れた少女のための、美しくも残酷な処刑場なのだから。
◇◆◇
「湊くん、朝よ。ネクタイ、選ばせて」
朝。結衣は昨日よりもさらに明るい声で、湊に仕える。
湊は、冷たい瞳のまま彼女の差し出したネクタイを受け取り、無言で首に巻く。
その光景は、側から見れば仲睦まじい新婚夫婦のように見えるかもしれない。
だが、湊が家を出る際、結衣の耳元で囁く言葉は、いつも同じだ。
「……今日、もし勝手に外に出たら。お前の父親の会社、潰すからな」
「……はい、湊くん。私、ずっとここで、あなたの帰りを待ってるわ」
結衣の顔には、この世の何よりも純粋な、
そして何よりも悍ましい「愛」が咲き誇っていた。
社会的抹殺。
それは、相手の地位を奪うことだけではない。
相手の魂を、自分なしでは生きていけない「ナニカ」へと作り替えてしまうこと。
湊の復讐は、まだ、終わっていない。
彼が結衣を冷たくあしらい、彼女がそれを喜んで受け入れる。
その循環が続く限り、二人の地獄は、永遠に完成しないのだ。




