【限定SS】浅羽蘭の苦難
東京の片隅にある、築年数の古い借家の台所は、いつも薄汚れた澱んだ空気に満ちていた。
浅羽蘭は、冷気が突き刺すように冷たい床に膝をつき、必死に雑巾を動かしていた。
フローリングの染みは、昨夜、夫である浅羽廉太郎がぶちまけた安物のウイスキーと、彼女自身の流した血が混ざり合ったものだ。
「おい、蘭! 飯はまだか!」
リビングのほうから、地鳴りのような怒声が響く。蘭の背中がビクリと跳ねた。恐怖が条件反射となって、彼女の心臓を冷たく締め付ける。
旧姓を浅羽という。いや、結婚する前から浅羽だったわけではないが。彼女はどこにでもある平凡な家庭に生まれ、夢を抱く普通の少女だった。
しかし、大学時代に出会った浅羽廉太郎の「巧みな外面と、底知れぬ暴力性」という罠に気付いた時には、すでに逃げ場のない檻の中に閉じ込められていたのだ。
廉太郎は、生粋の屑だった。
外では人当たりのいい顔を見せ、中小企業のサラリーマンとしてそつなくこなす男だが、一歩家の中に足を踏み入れると、その本性は狂暴な野獣へと変貌した。
仕事のストレス、自分の人生への不満、そのすべての矛先が、妻である蘭に向けられた。
「今、作っています……すぐ……」
蘭が震える声を絞り出すと、ガチャリと乱暴にドアが開いた。そこに立っていたのは、血走った目をギラつかせ、ワイシャツのネクタイを緩めた廉太郎だった。
手にはすでに空になったビール瓶が握られている。
「あ? 返事が遅せえんだよ、役立たずが!」
廉太郎の足蹴りが、蘭の脇腹を容赦なく捉えた。
「っ……!」
肺の空気が一気に押し出され、蘭の身体は床を滑るように吹き飛ぶ。
冷たい壁に背中を打ち付け、激痛に息ができない。涙が自然とあふれ出し、視界が歪んだ。
「お前みたいな女を生かしてやってるだけで、ありがたいと思えよ。俺の稼ぎがなければ、泥水をすすって生きるしかない底辺の虫けらのくせに!」
廉太郎の罵声が降る中、蘭はただ頭を抱え、床に額をこすりつけた。
「ごめんなさい……ごめんなさい、廉太郎さん……私が悪いです……」
震える声で、何度も、何度も謝罪を繰り返す。そうしなければ、暴力がさらにエスカレートすることを知っていたからだ。
自分の尊厳など、この家では最初から存在しなかった。
しかし、蘭にとって自分が痛めつけられること以上に耐えがたい苦痛があった。
それは、幼い娘・凛がその光景のすべてを目撃していることだった。
「ママ……」
リビングの隅、薄暗い廊下の影から、幼い凛が丸くなっていた。凛は、まだ物心つかない頃から、この異常な家庭環境の中で育っていた。
普通の子供なら泣き叫ぶような修羅場でも、凛は泣かなかった。ただ、翡翠色の美しい瞳を大きく見開し、冷徹なまでの静けさで、父の暴力と、母の這いつくばる姿を見つめている。
その瞳を見るたび、蘭の胸は引き裂かれるように痛んだ。
(この子だけは……この子だけは、私と同じ地獄に落とさない)
それが、蘭が生きるための唯一の支えだった。だが、廉太郎はその無機質なまでの凛の視線が気に入らなかった。
「おい、何ジロジロ見てやがる、ガキのくせに!」
廉太郎が不機嫌そうに舌打ちしながら近づいていく。
「やめて……! 凛には触らないで、お願い!」
蘭が這いつくばって廉太郎のすねにすがりつこうとしたが、容赦なく蹴り飛ばされた。
「うるせえな! 親に向かってその態度はなんだ。しつけが必要だな、この生意気な雌犬が」
廉太郎は凛の腕を乱暴に掴み上げた。凛はわずかに眉をひそめたが、相変わらず泣き声を上げない。そのことがかえって廉太郎のサディズムを刺激した。
「おとなしく反省しろ!」
廉太郎は凛を、狭く真っ暗な押し入れの中に放り込んだ。
「お前があんなガキを産むから……!」
「ママ……!」
暗闇の中から、初めて凛の微かな悲鳴が漏れた。
「凛っ! 開けて、お願い、あの子を閉じ込めるくらいなら私を殴って!」
蘭は血まみれの顔のまま押し入れの扉にしがみつき、必死に爪を立てた。指の爪が剥がれ、鮮血が木製の扉に赤い軌跡を描く。
「うるさいんだよ! お前ら親子は、俺の言う通りに縮こまってりゃいいんだ!」
廉太郎は吐き捨てるように言うと、再びリビングへ戻り、テレビのチャンネルを勝手に変えながらビールをあおった。
押し入れの前で、蘭は震えながら扉を抱きしめた。
「ごめんね、凛……ママが弱いから……ごめんね……」
飛び散る血と、止まらない涙。それが、浅羽家における当たり前だった。
鉄錆の匂いと、暗闇に閉ざされた娘の息吹。蘭の人生は、絶望という名の沼に深く沈み込んでいた。
この男がこの世から消え失せなければ、自分たちに明日はない。
いつしか蘭の胸の奥底には、恐怖だけでなく、どす黒い「殺意」のようなものが静かに芽生え始めていた。




