【限定SS】浅羽からの解放
その日は、いつもと変わらない地獄のような夜のはずだった。外は激しい雨が降り注ぎ、風が窓ガラスをガタガタと鳴らしている。
酒に酔った廉太郎は、機嫌を損ねていつものように蘭を殴りつけ、リビングのソファで荒いいびきをかいて眠りこけていた。
蘭は全身の痛みに耐えながら、押し入れから救い出した凛を抱きしめ、キッチンでこっそりと買っていたジュースを与えていた。
凛は無言のまま、母の服の裾をギュッと握り締めている。その小さな手の冷たさに、蘭は母親としての責任を痛感していた。
「……殺して、やる」
ふと、蘭の口から、自分でも驚くような低い声が漏れた。夫の暴力から逃れる方法などない。
警察も、親族も、誰も助けてはくれなかった。ならば、自分がこの手で終わらせるしかないのではないか。キッチンに置かれた、最も鋭い包丁に手が伸びかける。
その時、リビングの方から激しい物音が響いた。
「ん……あ……?」
泥酔した廉太郎が、気だるそうに起き上がり、トイレに向かおうと足元をフラつかせた。
視界が酒で歪んでいたのだろう。彼は廊下と階段の境目を踏み外し、そのまま急な木製の階段から、頭から真っ逆様に転がり落ちたのだ。
ゴンッ! という、鈍く、重い音が響いた。
「ぐっ……あ……」
廉太郎の身体が、一階の玄関のたたきにぐにゃりと折り重なるように投げ出された。
異変に気づいた蘭が、包丁を手にしたままリビングから飛び出す。
足元に広がるのは、見慣れた血溜まりだったが、今回はその量が異常だった。廉太郎の首の角度が、不自然にねじ曲がっている。頭から血が流れ出ている。
恐る恐る近づき、蘭が震える指をその鼻先に近づけた。
──え?息をしていない。
「……死んで、る……?」
何度も自分を殴り、凛を押し入れに閉じ込め、人生のすべてを踏みにじってきた男が、あまりにも無様に、ただの「冷たい屍」と化していた。
彼は、ただ自分の醜態によって、自らの首をへし折ったのだ。
しかし、その事実を理解した瞬間、蘭の胸を支配したのは恐怖ではなく、言葉にできないほどの、狂おしいまでの「解放感」だった。
「……死んだ……あの男が、死んだ……!」
頭の中の靄が晴れたかのような爽快感。縛り付けられていた日々からの解放と。
蘭は膝から崩れ落ち、その場で声を上げて笑った。涙と笑いが混ざり合い、狂気に満ちた空間に彼女の声が響き渡る。
凛が背後から静かに歩み寄り、冷え切った目で足元の父親の遺体を見下ろした。そして、一言も発さず、ただ母の服をそっと引いた。
「もう、大丈夫よ、凛。もう誰も、私たちを傷つけない」
警察の調べにより、廉太郎の死は「酒気帯び状態での階段からの転落事故」として処理された。外部からの介入はなく、事件性は一切なし。
浅羽廉太郎という悪夢は、こうして呆気なく、そして劇的に幕を閉じたのだった。
◇◆◇
夫の死から数年。
地獄から這い上がった蘭は、その圧倒的な美しさと、過酷な人生を耐え抜いたことで磨かれた底知れぬ知性を武器に、社会の荒波を生き抜いていた。
夫の遺産などわずかだったが、蘭は独学で資格を取り、必死に働き、凛を育て上げた。
その美貌と聡明さは、やがて財界の重鎮たちの耳に入ることになる。
当時、跡継ぎを失い、血縁の継承に頭を悩ませていた日本屈指の名門・九条家。その当主の目に留まったのが、シングルマザーとして気高く生きる蘭だった。
初めは、ただの「利用価値のある身代わり」としての縁談だったかもしれない。
だが、九条の屋敷に足を踏み入れた蘭が見せたのは、従順さと、泥水をも飲み干すような圧倒的な気概だった。
彼女は九条家の複雑な権力闘争を、持ち前の冷静さと忍耐力で次々とクリアし、ついには正式な後妻として、九条家の戸籍にその名を刻むことに成功した。
この日、初めて「浅羽蘭」は死んだ。
ここには、日本経済の裏側を牛耳る九条財閥の母、「九条蘭」が存在していた。莫大な財産、広大な屋敷、従うように頭を垂れる使用人たち。
かつて、狭い借家で夫の暴力に怯え、雑巾がけをしていた自分が、今や国の頂点に立つ一族の母として君臨している。あまりにも劇的な人生の逆転。
しかし、どれほど富と権力を手に入れても、蘭が傲慢になることはなかった。
彼女は、高級なドレスに身を包み、シャンパングラスを傾けるパーティの最中であっても、ふと冷たい床の感触や、あの日の鉄錆の匂いを思い出すことがあった。
(私は、知っている。足元にある泥の冷たさを。貧しい者がどれほど無力で、どれほど理不尽に踏みにじられるかを)
九条家の莫大な権力を手にしてなお、蘭は常に謙虚であり続けた。
使用人たちには常に丁寧な言葉遣いを崩さず、恵まれない境遇にある施設への寄付を密かに続け、権力を誇示するような真似は一切しなかった。
権力とは、人を守るための盾であって、誰かを理不尽に傷つけるための剣ではない。それを身をもって知っていたからだ。
だが、蘭の心には、一つの大きな棘が刺さっていた。
それは、彼女の愛娘であり、九条家を継いで美しく、そして恐ろしいほどの知性を持って成長した娘——九条凛の存在だった。




