最終話 幸福という名の絶望
刑務所の壁は、外部の季節を一切遮断していた。藤堂蓮にとって、独房の冷たいコンクリートは、今や母の胎内のように安心できる場所となりつつあった。
彼の手首には、自ら刻んだ無数の傷跡が、湊への「メッセージ」かのように並んでいる。
蓮は、日に日に痩せ細っていく自分の身体を鏡で見ながら、ふと口角を上げた。
(あぁ、そうか。俺は、ずっとこれが欲しかったんだ)
かつてサッカー場で浴びた喝采も、学園の女子生徒たちからの黄色い声も、今のこの「湊だけに認められ、湊だけに苦しめられる」という絶対的な関係に比べれば、あまりに希薄で無意味なものだった。
◇◆◇
湊が最後に面会に来たのは、冬の終わりのことだった。
「……蓮。お前、少し痩せたか?」
アクリル板の向こうで、湊が初めて見せた、微かな「哀れみ」。その表情を見た瞬間、蓮の心臓は狂おしいほどの熱量で脈打った。
「湊……お前が、俺を……心配してくれてるのか?」
「心配? 違うな。……俺は、お前が自分の人生を削って俺に捧げてくれているその姿を、いつまでも眺めていたいだけだ」
湊は、まるで美術品を鑑賞するように、蓮の死にかけの表情を観察していた。
「……そうだ。俺はお前のために、消えていく。お前の心の中に、この藤堂蓮という名前を、永遠の呪いとして刻み込んでやるだから、忘れないでくれ」
蓮は、恍惚とした表情で呟いた。
もう、ここから出る必要などない。
外の世界には、もう自分を必要とする場所も、自分という人間を証明する記録も存在しない。
ただ、この閉鎖空間で、湊の幻影を抱きしめながら、一生を終える。それこそが、彼が最後に選んだ「幸福」だった。
◇◆◇
湊が去った後、蓮は独房の隅で静かに膝を抱えた。かつて自分と共に湊をいじめていた奴らに金を払い、湊を救ったという偽りの物語を演じさせたあの頃。
自分のプライドを守るために、他人の尊厳を食い物にしてきたあの頃。あの時、蓮は確かに「強者」であったはずだった。
だが、今、すべてを奪われ、狂気に沈む今の自分の方が、どうしようもなく「満たされている」という矛盾。
「なあ、湊……。俺たちは、ずっとこうして遊ぶんだよな……?」
壁に刻まれた『佐藤湊』という文字を指先でなぞりながら、蓮は子供のように目を細めた。監視カメラの向こう側で、看守たちは震えていた。
かつての輝かしい学園の王子様が、今は暗闇の中で、一人の男の名前を呼びながら、幸せそうに自分のにじむ血で壁に絵を描いているのだから。
その光景は、もはや「悲劇」を超えて、一種の宗教的な美しさすら帯びていた。
◇◆◇
蓮の心の中にあった「藤堂蓮」という人間は、完全に消滅した。代わりにそこに残ったのは、湊という神に帰依し、その足元で一生這いつくばることを望んだ「僕」だけ。
数年後、蓮は獄中で静かに息を引き取った。死因は、極度の衰弱と、心不全。
看守が遺品を整理した際、出てきたのは一冊のボロボロのノートだった。そこには、湊への賛美と、湊を愛したことへの狂おしい感謝が、ページの隅々まで、びっしりと書き込まれていた。
遺骨を引き取る者は誰もいなかった。
湊も、蓮の葬儀には現れなかった。
だが、湊のマンションの書斎にある金庫には、そのニュースを伝える切り抜きが、他の復讐の記録と共に、丁寧に保存されていた。
湊は、窓の外を眺めながら、独り言をつぶやく。
「……藤堂蓮。お前は、最後まで俺の最高の理解者だったよ」
その声は、驚くほど穏やかだった。
彼の人生から、また一つ「復讐すべき対象」が消えた。残されたのは、結衣という名の抜け殻と、完成された静寂だけ。
湊は、結衣が淹れてくれた紅茶を一口啜る。味は、完璧だった。
今日も、明日も、その次も。
湊の支配する世界では、何一つとして狂うことはない。彼が望んだ地獄は、誰にも邪魔されることなく、こうして永遠に完成されたまま、静かに呼吸を続けている。
そう、これからもずっと。たとえ湊という花が朽ちようとも、結衣という潤いが渇いても、彼らの遺志を継ぐものとともにずっと。




