第1話 パパ
私立 碧御学園の校門をくぐる佐藤水雲の姿は、まるで春の陽光をそのまま形にしたようだった。腰まで伸びた艶やかな黒髪、そして父譲りの理知的な瞳。彼女は入学初日から、全校生徒の視線を一身に浴びていた。
「おはようございます。いいお天気ですね」
水雲がすれ違う生徒たちに微笑みかけると、誰もが足を止め、呆然とその清廉な姿を見送った。彼女の持つ「調和」のオーラは、学園という殺伐としたエリートの吹き溜まりにおいて、異質なほどに眩しかった。
その日の放課後、水雲は図書室の隅で、一人で泣いている女子生徒を見つけた。
彼女は成績不振で教師に罵倒されたばかりだった。学園の誰もが、彼女を「負け組」として切り捨て、あるいは冷ややかに観察している。
水雲は、父の書斎で読んだ心理学の本の知識、そして父が母・結衣を「管理」する時の穏やかな口調を思い出した。
「大丈夫? 何か、私に手伝えることはある?」
水雲は、首を少し傾げ、困ったような、しかし心底から相手を案じる慈愛の表情を作った。父の「支配」の技術を、水雲は「親切」というフィルターを通して無意識に実行しているに過ぎない。
女子生徒は、その瞳に見つめられた瞬間、背筋に奇妙な電流が走ったような衝撃を受けた。
(この人は、私を見てくれている……)
「……私、もうダメなの。誰も信じてくれないし、勉強も……」
「そうじゃないわ。君がダメなんじゃなくて、君のやり方を見ている人がいないだけよ。私が君の力になりたい。……君の、たった一人の理解者になりたいの」
水雲の言葉は、完璧な調律が施された楽器のように、少女の心の急所を鳴らした。それは、父・湊がかつて復讐のために築き上げた「依存の構造」そのものだった。
だが、水雲には微塵の邪心もない。ただ、相手を救いたいという純粋な衝動が、彼女の言葉を「洗脳」に近い威力に変えていた。
その夜。
帰宅した水雲は、リビングで一人お茶を飲んでいた父・湊に駆け寄った。
「パパ、ただいま! 今日ね、パパがいつもお母様にしているみたいに、お友達に挨拶をしたら、すごく喜んでくれたの」
湊は手元の資料から目を上げ、娘の無邪気な顔を見つめた。彼は知っている。自分が娘に教えてきた心理操作術が、どれほど人を狂わせるかを。だが、目の前の水雲の瞳には、かつての自分にあった「黒い虚無」がなかった。
「……そうか。それは良かったな、水雲」
湊はそう答えながら、娘の頭を撫でる。
その手は、かつてないほど迷いを帯びていた。水雲が笑うたび、湊の中で凍りついていた「かつての自分」が、わずかに、しかし確実に軋み音を立てて溶け始めていた。
水雲の無自覚な優しさが、完璧な支配者である湊の城壁を、外側から静かに侵食していく――。
この日の時点では、湊自身もまだ、それが何をもたらすかを知る由もなかった
◇◆◇
碧御学園1年A組。そこは、水雲を中心とした奇妙な秩序に支配されていた。
「水雲様、今日のノート、お貸ししましょうか?」
「水雲様、今度のお茶会、ぜひ我が家へ!」
休み時間になれば、水雲の席の周りには人だかりができる。水雲は、父の真似をして一人ひとりの目を見て、穏やかに微笑み、完璧な相槌を打つ。彼女にとってそれは「パパが毎日している、家族への愛の形」の模倣に過ぎない。だが、周囲の生徒たちにとって、それは「聖女からの特別な寵愛」として受け取られていた。
その光景を、クラスの隅から憎悪に満ちた目で見つめる少女がいた。
北沢 玲奈。
彼女は中学時代、その可愛らしい容姿で「お姫様」として持て囃されてきた。だが、水雲の入学によって、その座は一瞬にして奪われたのだ。
(何が『水雲様』よ。あんな、作り物みたいな笑顔……!)
玲奈にとって、水雲の完璧さは「計算された演技」にしか見えなかった。自分からスポットライトを奪った水雲を、玲奈は激しく憎悪していた。
◇◆◇
放課後、クラス委員を決める話し合いが行われた。
「委員長は、水雲様しかいません!」
一人の生徒の提案に、クラス中が賛成の拍手で包まれる。水雲は、困ったように眉を下げた。
「私なんて、そんな大役……。でも、みんながそう言ってくれるなら、頑張ってみるね。……パパみたいに、みんなを導けるか分からないけど」
水雲のその謙虚な態度は、さらにクラスメイトの忠誠心を煽った。
(……今よ)
玲奈は、ニヤリと唇を歪めた。彼女はあらかじめ、教卓の脚に細い糸を仕掛けていたのだ。水雲が教卓に向かって歩けば、必ず躓き、無様に転倒する。全校生徒の前で恥をかけば、あの完璧な仮面も剥がれるはずだ。
「佐藤さん、委員長就任の挨拶、前でお願いね」
玲奈は、わざとらしく明るい声で水雲を促した。
「ええ、分かったわ」
水雲は、教卓へと歩き出す。クラス中が、彼女の言葉を待って静まり返った。玲奈は、水雲の足元を凝視し、勝利を確信した。
(……え?)
だが、玲奈の期待は裏切られた。
水雲は、糸が張られている場所の数センチ手前で、ふと足を止めたのだ。
「……あ、北沢さん」
水雲は振り返り、玲奈に真っ直ぐな視線を向けた。その瞳には、玲奈が抱く悪意など微塵も映っていない。
「北沢さんの靴、リボンが解けかかっているわよ。……躓いたら危ないから、直した方がいいわ」
「……っ!?」
玲奈は、絶句した。
水雲は、玲奈を陥れようとする罠に気づいたのではない。ただ、玲奈の「綻び」を心配しただけだ。だが、その言葉によって、玲奈はクラス中の視線を浴びることになった。
「あ、本当だ。北沢、だらしないな」
「水雲様は、そんな細かいところまで……。なんて優しいお方なの」
クラスメイトたちの言葉が、玲奈に突き刺さる。水雲の純粋な「親切」は、玲奈の「悪意」を、一瞬にして「自分の不注意」へとすり替えたのだ。
◇◆◇
玲奈の敗北は、これだけでは終わらなかった。
「挨拶の続きをお願い、佐藤さん」
「ええ。……みなさん、私は、このクラスが大好き。……だから、北沢さんみたいに、少し注意力が散漫な子がいても、みんなで支え合っていきたいの」
水雲は、玲奈の手を握り、心底から彼女を案じる慈愛の笑顔を向けた。
「北沢さん、私と一緒に、完璧なクラスを作りましょうね」
その瞬間、玲奈の中で、何かが崩壊した。
憎んでいたはずの完璧な笑顔が、自分を「守るべき存在」として全肯定している。
(……あ、あぁ……)
玲奈の瞳から、憎悪の火が消え、深い、深い依存の光が宿った。
「……はい。水雲様。私、一生あなたについて行きます」
玲奈は、教卓の脚に張った糸を、自らの手で静かに引きちぎった。水雲は、自分が罠にかけられようとしていたことなど、一つも気づかないだろう。ただ、自分を「陥れようとした敵」さえも、無邪気な愛で自分の「ペット」に変えてしまったのだ。
その夜。帰宅した湊は、書斎で水雲から学園の話を聞いた。
「パパ、今日ね、北沢さんっていうお友達が、私をすごく頼りにしてくれたの。……パパがお母様にしているみたいに、その子の『弱さ』を認めてあげたら、すごく安心してくれたわ」
湊は、金庫の中にある藤堂蓮の記録から、目を背けた。水雲が行っていることは、かつての自分が「復讐」のために使った技術と同じだ。だが、水雲の手にかかると、それは「救済」の形をとる。
(……お前は、俺を越えていくのか、水雲)
湊の心の中に、初めて「恐怖」ではない、歪んだ「親としての誇り」と、そして微かな「嫉妬」が芽生えていた。




