第3話 正義の変質と毒の誘惑
マンションから追い出された一条響は、夜の街を彷徨っていた。
雨が降り始め、特待生としての誇りだった制服が重く肌に張り付く。
「……何が正義だ。何が法だ……」
湊の冷徹な言葉が、呪いのように脳内で反復される。
救おうとした結衣に拒絶され、まるで自分が悪者であるかのように扱われた屈辱。法曹界の正論など、あの「共依存の地獄」の前では、羽虫の羽ばたきほどにも無力だった。
翌日、響が登校すると、学園の掲示板に奇妙な噂が流れていた。
『特待生の一条が、女子生徒の家に不法侵入したらしい』
『正義漢を気取って、実はストーカーだったのか?』
凛が仕掛けた「調整」だ。湊が警察に通報しなくても、噂という毒は確実に響の立場を蝕んでいく。
昨日まで彼を慕っていた後輩たちが、今は遠巻きに彼を見て、ヒソヒソと囁き合っている。
「……九条先輩」
響は、校舎の裏で優雅に紅茶を嗜む凛の元へ向かった。その瞳からは、かつての眩い輝きが消え、底暗い情念が滲み出していた。
「あら、一条くん。ずいぶんと酷い顔ね。正義の味方が、一晩で悪役にされてしまった気分はどうかしら?」
「……教えてください。佐藤湊を倒すには、どうすればいい。綺麗事じゃあいつは殺せない。……僕も、あいつと同じ『毒』が必要なんだ」
凛は、待ち望んでいた言葉を聞き、扇子の陰で口角を吊り上げた。
「いい覚悟ね。……そう、正義で勝てないなら、悪で呑み込むしかない。佐藤くんが最も恐れるのは、自分が積み上げた『支配の構造』が、さらに暴力的な力で破壊されることよ」
◇◆◇
凛は、一枚のメモを響に手渡した。
そこには、学園から追放された「藤堂蓮」を今も慕う、素行の悪いOBたちの連絡先と、彼らが溜まり場にしている地下カジノの場所が記されていた。
「彼らは、佐藤湊に人生を狂わされた人間たち。彼らに『武器』と『大義名分』を与えてあげなさい。……佐藤くんが結衣さんを守るために築いた檻を、外側から物理的に壊すのよ」
「……暴力を使えと言うんですか」
「暴力ではないわ。それは『強制執行』と呼ぶべきものよ。彼が法を無視して彼女を縛っているなら、こちらも法を超えた力で彼女を解放する。……違うかしら?」
響はメモを握りしめた。
法を司る家に生まれた自分が、法の外側に手を伸ばす。その瞬間、自分という存在が崩壊していく音がしたが、それ以上に湊への復讐心が、彼の背中を強く押した。
◇◆◇
響が向かったのは、街の場末にある地下カジノだった。
タバコの煙と欲望が渦巻くその場所で、彼は藤堂蓮の元側近だった男、鮫島と接触する。
「……へぇ、学園の優等生様が、俺たちに何の用だ? 佐藤にチクって俺たちをまた退学にでも追い込むか?」
鮫島は、響の胸元を乱暴に掴み、アルコールの臭いを吹きかける。
「佐藤湊を潰したい。……奴のすべてを壊すための『手足』に、なってくれないか」
響の冷え切った瞳を見て、鮫島はニヤリと笑った。
「はっ、面白ぇ。あのガリ勉野郎には、俺たちも積年の恨みがあるからな。……だが、タダじゃねえぞ。準備金と、奴のマンションのセキュリティを無効化するネタを用意しろ」
響は、自分の将来のために貯めていた預金口座を迷わず差し出した。
さらに、凛から「偶然」横流しされたマンションのマスターキーの複製データを提示する。
正義を捨てた響の行動は、驚くほど迅速で、かつ迷いがなかった。
◇◆◇
その様子を、凛はカジノに設置した隠しカメラで眺めていた。彼女の隣には、いつの間にか湊が立っていた。
「……一条くんを、あそこまで追い詰めるなんて。九条さん、相変わらず悪趣味だ」
湊の声には、僅かに不快感が混じっている。
「あら、あなたの模倣をさせてあげているだけよ。彼の中に眠っていた『執着』を引き出したのは、私ではなく、あなたの冷たさだわ」
凛は湊の肩に手を置き、その耳元で囁く。
「一条くんは、近いうちにあなたのマンションを襲撃する。……ねえ、佐藤くん。あなたは自分の『檻』をどう守るのかしら? 暴力で来る正義に対して、あなたはさらなる地獄を見せるの?」
湊は、凛の手を無造作に振り払った。
「……俺のやり方は変わらない。来るなら来ればいい。一条くんも、藤堂と同じ場所へ送ってやるだけだ」
湊が部屋を去った後、凛は一人、暗闇でワイングラスを掲げた。
「いいわ……佐藤湊、一条響。二人の若き天才が、一人の女を巡って泥沼の殺し合いを演じる。……これこそが、私が求めていた『最高の戯れ』」
◇◆◇
数日後の深夜。響は鮫島たち数人を引き連れ、湊のマンションの裏口に立っていた。
手には、重い鉄パイプと、麻酔薬。
「……行こう。あそこは、あるべき姿に戻さなきゃいけないんだ」
響の言葉は、もはや救済者のものではなく、獲物を狙う狩人のそれだった。
エントランスのロックが解除され、彼らは音もなくエレベーターに乗り込む。
ターゲットは、最上階。そこには、冷酷な支配者と、心を壊された幼馴染が待っている。
一条響の、最後にして最大の「正義の執行」が始まろうとしていた。
だが、彼はまだ知らなかった。
マンションのロビーで、湊がすべてを予期し、一通の通報メールを指先一つで送信しようとしていることを。
そしてその通報先は、警察ではなく、一条響の「父親」が勤める検察庁の極秘窓口であったことを。




