第2話 聖域への侵入者
九条凛から送られてきた匿名メールのデータ。一条響は、深夜の自室でそれを見つめ、激しい吐き気に襲われていた。
画面に映し出されているのは、法的な効力すら疑わしい「隷属」に近い借用書、そして佐藤湊が日々の結衣の言動をスコア化し、罰を与えている冷酷な記録。
「……これが、聖鳳学園の誇る優等生の正体か」
響の拳が、机の上で震える。
法曹界のサラブレッドとして育った彼にとって、湊の行いは法と倫理への冒涜そのものだった。湊は結衣を救っているのではない。
弱みにつけ込み、彼女の精神を解体して、自分専用の動く人形へと作り変えているのだ。
「待っていてください、水瀬先輩。僕が必ず、その檻を壊してみせる」
響は翌朝、登校するなり凛の元を訪ねた。
「九条先輩、確信しました。佐藤先輩は犯罪者です。あんなもの、保護でもなんでもない。ただの拉致監禁に近い支配だ」
凛はティーカップを唇に寄せたまま、上目遣いで彼を見た。
「あら。ずいぶん物騒な言い方ね、一条くん。でも、証拠はあるの? あのデータだけでは、彼が『彼女に頼まれて管理している』と言い逃れればそれまでよ」
「だから、現場を押さえます。彼が不在の間に、マンションに潜入して彼女を救出する。本人の口から助けを求める言葉を引き出せば、警察も動かざるを得ない」
凛は心の中で喝采を送った。
(いいわ、その猪突猛進さ。佐藤くんの冷徹な計算が、君のような「計算外の熱」にどう対処するか見ものだわ)
「そう……。なら、協力してあげる。佐藤くんが今日の放課後、生徒会の会合で拘束されるように手配するわ。鍵は……彼が予備を部室のロッカーに隠しているのを『偶然』知っているの」
凛は嘘をつくとき、指先ひとつ動かさない。
実際には、彼女が湊の部屋のスマートロックをハッキングし、彼女のスマホで解錠できるように細工しただけなのだが。
◇◆◇
放課後。
湊が生徒会室で凛との打ち合わせに臨んでいるその裏で、響は湊の住むマンションの前に立っていた。
学園から徒歩15分。セキュリティの厳重な高級マンションだ。
響は凛から送られたコードを入力し、エントランスを抜ける。エレベーターを降り、最上階の一室へ。
「……失礼します」
解錠されたドアを、響は静かに開けた。
部屋の中は、驚くほど清潔だった。家具はすべて白かグレーで統一され、生活感が希薄だ。まるでモデルルームか、あるいは「精神病院の特別室」のような冷たい静寂が支配している。
「水瀬先輩……? いらっしゃいますか?」
リビングのソファに、彼女は座っていた。
窓の外を見つめ、微動だにしない。響が近づいても、彼女は瞬きひとつしなかった。
「水瀬結衣先輩。……一条響です。あなたを助けに来ました」
響がその肩に手を触れようとした瞬間、結衣が跳ねるように振り返った。
その瞳には、光がなかった。ただ、深い深淵のような暗闇が広がっている。
「……湊くん? 湊くん、帰ってきたの?」
「違います。僕は後輩の一条です。先輩、ここは異常です。佐藤先輩に何をされているんですか? さあ、一緒に逃げましょう。僕の家があなたを保護します」
結衣は、響の言葉を理解していないようだった。彼女の視線は響を通り越し、玄関の方を、あるいは時計の針を追っている。
「逃げる……? どこへ? 湊くんがいないと、私の家は潰れてしまう。湊くんがいないと、私は誰も愛してくれない『汚れた女』に戻ってしまう。……あなた、湊くんじゃないなら、帰って」
「先輩! 目を覚ましてください! 彼はあなたを洗脳しているんだ!」
響が彼女の両肩を掴んで揺さぶった、その時。
◇◆◇
「……人の家で、随分な乱暴をするんだな。一条くん」
背後から、氷のような声が響いた。
響が凍りついたように振り返ると、そこにはいつの間にか湊が立っていた。生徒会にいるはずの男。だが、その顔には怒りも驚きもない。ただ、道端に落ちたゴミを見るような、深い軽蔑だけがあった。
「佐藤……先輩。どうして」
「九条さんから連絡があってね。君が『僕の部屋で結衣に乱暴しようとしているかもしれない』と心配されていたよ。……防犯カメラの映像は、すでにクラウドへ保存済みだ」
湊は一歩、また一歩と響に近づく。
「一条くん。君の言っている『正義』とは、不法侵入をして、精神的に不安定な女性を無理やり連れ出すことなのか? 君の家系は法曹界だったね。その看板に、ずいぶんな泥を塗るじゃないか」
「違う! 僕は彼女を救いに――」
「『救う』? 君に何が救える。君は、彼女が親友と俺を裏切って笑い転げていた現場を知っているのか? 彼女の実家が犯した不正の山を知っているのか? 君がやっているのは、ただの自己満足だ。汚れを知らないお坊ちゃんの、残酷なヒーローごっこだよ」
湊の手が、響の胸元を掴む。
その力は驚くほど強く、響は呼吸が止まりそうになる。
「俺は、彼女に『現実』を見せているだけだ。罪には罰を。裏切りには隷属を。それがこの世界の正しい循環だと思わないか?」
◇◆◇
「……湊くん。湊くん、怒らないで」
結衣がふらふらと立ち上がり、湊の腕にすがりついた。その仕草は、忠実な犬が飼い主の機嫌を取るようでもあり、壊れたゼンマイ仕掛けの人形のようでもあった。
「この人が勝手に入ってきたの。私は、ずっとここで湊くんを待ってた。湊くんが言った通り、誰とも話さず、何も見ないで、待ってたのよ」
結衣は響を、心底気味の悪いものを見るような目で見つめた。
「……ねえ、湊くん。この人、私の『幸せ』を壊そうとした。……罰をあげて。私と同じように、この人にも『絶望』を教えてあげて」
響は、全身から力が抜けていくのを感じた。
自分が救おうとした女性が、自分を「敵」として認識し、自分の支配者に「罰」を求めている。
これこそが、湊が半年かけて作り上げた、難攻不落の精神の檻。
「……聞こえたかい、一条くん。これが彼女の意志だ。君が踏み込んだのは、君には理解できない『共依存』の深淵なんだよ」
湊は響を突き飛ばした。響は床に激しく打ち付けられる。
「今日のところは、警察には言わないでおいてあげるよ。九条さんへの義理もあるしね。……でも、次はない。次、俺たちの聖域を汚そうとしたら、君の父親のキャリアを含めて、すべてを更地に変えてやる」
◇◆◇
暗い生徒会室。
凛は、手元のモニターでマンションの一部始終を見ていた。響の絶望に歪む顔。湊の冷徹な凱旋。そして、結衣の壊れた笑顔。
「あはは……最高。完璧だわ、佐藤くん」
凛はワインを飲み干し、モニターの響の顔を愛おしそうに撫でた。
「一条くん。君の正義は、一瞬で『独善』へと成り下がった。……でも、これで終わりじゃないわよ? 正義が通じない世界を知った君が、次にどんな『毒』に手を染めるのか……私はそれを楽しみにしているんだから」
凛の戯れは、ターゲットを湊から、今や「壊れゆく正義」である一条響へと移しつつあった。
彼女にとって、この学園は大きな実験場。
誰もが主役になれず、誰もが彼女の掌の上で、醜くのたうち回る。
「さて、明日の朝。一条くんは、どんな顔をして登校してくるかしらね」
女王の笑い声が、夜の校舎に虚しく響いた。




