003正妻、長男、長女
婆やが持ってきた茶碗に入った水を飲み干し、俺は一息つく。
水分をしっかりと摂取したことで、目覚めたら18歳から、いきなり3歳になったことへの困惑は、だいぶ収まった。
「よし」
茶碗を婆やに返し、何度か深呼吸をした後、俺は立ち上がる。
そして、部屋から出ようとする。
だけど、3歳の体なので上手く歩きづらい。
「ぼっちゃま、どうしました?」
「うん…と……さんぽ」
咄嗟に出た言葉が、それだった。
散歩。如何にも、3歳らしい。
「おや。お散歩ですかい」
婆やは微笑んだ。
そして、婆やは俺の手を掴む。
「では、危ないですから…婆やが一緒に参りましょう」
それは助かる。大人の補助が無いと、歩きにくい。
そうして、俺と婆やは廊下へ出る。
窓から朝の光が縁に差し込んで、木の床に淡い線を描いている。
どこかで鳥の声がする。
ここは、屋敷の二階。
俺のような子供部屋は、主に屋敷の二階に設置されている。
廊下を歩くたびに、木目の床からギシギシ…と、音がする。
九十九神楽本邸の屋敷は、無事である。
柱も、梁も、畳も、すべてがある。
東京にある九十九神楽の本家が存在する屋敷…通称、『九十九神楽本邸』。
非常に年季が入っている。
当然か…江戸時代の始まりと同時期に建てられ、約400年の歴史を持つ屋敷だから。
そんな400年の歴史を持つ九十九神楽本邸は…ずっと前に火事で崩れ落ち、焼けて、黒い骨みたいになっていたはず。
俺の記憶上、今は何も残っていないはず。
歩きながら、俺は何度も確かめるように屋敷の壁に触れた。
木のざらつきや温かさ。
しっかりと、ある。
「坊っちゃま、壁に手をつきますと汚れますよ」
婆やが、やんわり言う。
「……ごめんなさい」
謝りながら、俺は婆やにバレないように、口元を緩める。
気を抜いたら、また泣きそうだ。
“ある”という事実が、ただ嬉しかったのだ。
嬉しいなんて言葉じゃ足りない。
泣きたくなるくらい、救われる。
廊下を歩いていると、使用人が通りかかる。
「宵明様、おはようございます」
俺は婆やと手を繋いだまま、反射で頭を下げた。
「……おはよ」
礼儀作法は身体が覚えている。
御三家の子として叩き込まれたからだ。
その後も何人かの使用人とすれ違い、挨拶を交わす。
「こっちにいきたい」
「おや、こっちですか」
婆やが俺の行きたい方向に対し、3歳の俺の歩幅に合わせて進んでくれる。
俺には、会いたい人たちがいる。
過去に本当に戻ったのなら、まだ生きているはずだ。
その人たちがいるだろう部屋は、この先にある。
けれど廊下は長い。3歳の脚では長すぎる。
廊下の角を曲がったところで、俺は少し屈む。
「坊っちゃま」
婆やがすぐ支える。
くそ…体力が無い。
18歳の感覚で動こうとしても、身体は言うことを聞かない。
3歳の体と言うのは、こんなにも心もとないのか。
それでも何とか、目的の部屋を見た。
「坊っちゃま、こちらは……」
婆やが言いかけて、俺の顔を見る。
何かを察したように声を柔らかくした。
「真様に会いに?」
「うん。シンにぃ…に、あいたくて」
俺は障子に手をかけて、
「……いる?」
部屋の中へ呼びかける。
そして、すぐに、
「はい。どうぞ」
透き通った女性の声がする。
俺の心臓が反射的に波打つ。
この女性の声は!
俺は急いで障子を開ける。
その部屋は俺の部屋よりも小さく、物も全く置いていない質素な部屋。
室内の空気は静かで、少しだけ薬草の匂いが混じっていた。
そして、部屋の中には、3人の人間がいた。
部屋の中央の布団に横たわる5歳の男の子。
その横たわる男の子を介護するように、額に手拭いを当てる横に20代後半の女性。
その女性のそばで、小さな水槽の中の金魚に餌をやっている4歳の女の子。
俺は、その場で固まった。
「あ…ああ……」
また、泣きそうになる。
視界の端が、じわっと滲む。目の奥が熱い。
3歳の身体は、感情の堤防が低い。すぐ溢れそうになる。
でも、仕方ないよね。
会いたかった人たちが…死んだはずの人たちが生きていれば。
3人とも、生きている!!
「あら…宵明?どうしたの?」
男の子を介護していている女性…文世が驚いた顔をしていた。
透き通った水色の長い髪を一つに編み込んで、水紋の模様がある白い着物を着た彼女は、九十九神楽文世。
俺の父に当たる人の一番目の妻、つまり正妻の人である。
一番目の妻と言う言葉がある通り、九十九神楽本家の当主であった俺の父には複数の妻がいる。
陰陽師は日本に蔓延る怪異や妖怪を退治するための貴重な戦力。
そのため、九十九神楽のような御三家や名門の陰陽師家系などでは、血統の確保や戦力増強と言う観点から、現在の日本においても重婚が許されているのだ。
特に、俺の代の九十九神楽家本家では、優秀な血の確保や政略結婚など、様々な理由で多くの妻を取り、その分…多くの子供がいる。
俺も、その一人。
「おや…この声は。そこに、宵明がいるかい?」
布団に横たわっていた男の子…真が文世の補助を受けながら、起き上がる。
長い黒髪を携え、目元には布のようなものを撒いて、視界を隠している5歳の男の子は、九十九神楽真。
俺の2つ上の兄であり、九十九神楽本家の第1子。すなわち、長男である。
真は、5歳とは思えないぐらい落ち着いた雰囲気を出していた。
「しょうめい…かお、あかい。だいじょうぶ?」
そこで、金魚に餌をやっていた女の子…澪が泣きそうな俺に寄ってきて、心配そうに顔を覗き込む。
文世と同じ透き通った水色の髪を持っており、文世と同じ顔つきの4歳の女の子は、九十九神楽澪。
俺の1つ上の姉であり、九十九神楽本家の第2子。すなわち、長女である。
真と澪は、正妻である文世の実の息子と娘である。
文世さんも、真兄も、澪姉も生きてる!
この3人も、婆やと同じように、俺が幼い頃に死んだはずなのだ。
因みに、俺は長男の真のことを、真兄と呼んでいる。
本来の名前は、まこと…であるが、本人がいろいろと紛らわしいので、家族や使用人たちに真と呼びように言っているのだ。
「すごく、うれしくて。さんにん…に、あえて。すごくうれしくて」
俺は精一杯、今の感情を言う。
語彙力が滅茶苦茶。
俺の言葉に、文世は首を傾げる。
澪は、キョトンとした顔をするのみ。
真は布で目を隠しているので、分かりにくいが、恐らく目を点にしているだろう。
「はは…私達に会えて、嬉しいのかい。私も今日、宵明に会えて嬉しいよ」
「しょうめい…だいじょうぶ、だいじょうぶ」
真は軽く笑う。
澪は、泣いている俺の頭をヨシヨシしてくれた。
「宵明…急にどうしたのですか。私達には、いつでも会えますよ。ほら…涙を拭いて」
文世は、こちらに来て、優しく俺の目尻にある涙をハンカチで拭いてくれる。
血の繋がった実の母では無いのに、実の息子に接するような暖かさ。
俺の涙を拭いた文世は、婆やに向く。
「常さん、宵明をお願いします」
「はい、文世奥様」
常というのは、婆やの名前だ。
九十九神楽本家の屋敷には、多くの使用人がいる。
しかし、なんと文世は使用人一人一人の顔と名前を憶えているのだ。
時には、使用人の悩みすら聞いて、適切なアドバイスをする。
だからこそ、使用人の多くは、文世を信頼している。
まさに、正妻としての貫禄を感じさせる九十九神楽本家の精神的支柱。
彼女は九十九神楽本家において、なくてはならない存在なのだ。
そして、長男と長女。
この2人は、俺なんかよりも遥かに優秀で、この2人も九十九神楽において、なくてはならない存在。
真たちの生存を確認した俺は、真の部屋から離れる。
さっきも言ったが、あの3人は死ぬ。
俺が幼い頃に。
仮に、同じ未来を辿るのなら、婆やも真も澪も文世も、これから死ぬのだ。
俺は、九十九神楽家が失墜した大きな原因の一つが、正妻の文世、長男の真、長女の澪の死であると思っている。
あの3人が生きていれば、九十九神楽家は、俺が18歳になるまでに、家として保っていたはずなのだ。
だから、絶対に、あの3人は死なせてはいけない。
婆やが、俺の横に寄り添う。
俺は静かに、婆やを見上げる。
勿論、婆やも助ける。
というか、これから死ぬはずの俺の家族…身内は全員、俺が助ける。
そのために、どうすればいいのか?
決まっている!
強くなるのだ!
俺がみんなを助けられるほど、強くなれば良いのだ。
「……ばあや」
「はい」
俺は婆やに言う。
決意を込めた目で。
「おれ、つよくなる」
俺は言い切る。
「はい?」
婆やは目を点にするのみ。
「おれ、つよくなって…ばあやをまもる。みんな、まもる。つくもかぐらを…まもる!」
それは、俺の生涯で成すべき目標となるように、何度も頭の中で言葉を反芻して、言ったのだ。
今の九十九神楽を守れるのは、未来を知っている俺しかいない。
「そうですか。それは心強いです。では……強くなるために、ぼっちゃまは…まずは、たくさん遊んで、たくさん食べて、たくさん寝てください」
俺の言葉を冗談だと思ったのか、婆やは、クスリと笑って、俺の頭を撫でるのだった。
因みに、この後…意気込みをした俺はそのみま自室に戻る。
そして、疲れた俺は、さっきの意気込みは何処に行ったのか、お昼寝に着くのであった。
本当に、3歳の体はすぐに疲れて、寝てしまう。




