リーゼロッテ
そっとセレスが隣に並んだから、私は聞いた。
「珈琲は、どうなったのよ」
セレスは、わたしの頭にポンと手を置いて、笑った。
「ちゃんと用意しているよ。あそこで飲もう」
セレスが視線を送った先には、ゆったりとしたソファーセットが、あった。
セレスが腕を差し出したので、素直にエスコートされる。
セレスが用意してくれた珈琲は、とてもまろやかで美味しかった。
「美味しいわ。でもセレスはもう少し深い味がすきなのでしょう?」
「そうだけれど、ナナはこっちが好きだろう?
ナナの好きな味も楽しみたいからね」
「そう?私は、あまりに苦みも酸味も主張され過ぎるのは苦手なの。
このくらいが美味しいわ」
「うん、そうだと思った。
酸味が強いと一口飲んだだけで、やめてしまうし、苦みが強いとミルクを入れているからね」
「よく見ているのね」
「ナナが分かりやすいんだよ。
皇族としては、それはご法度だけれど。
好みを知られるのは、良いことではないから。
ナナは不思議だね。
プライベートだと、喜怒哀楽をはっきり出すし、こうして好みもすぐにわかるのに、他人と一緒だと、何でもおいしそうに食べてみせるね」
「うーん。好き嫌いを出さないようには、しているわね。
自分の大好物を嫌いだと吐き捨てられて、いい気持ちがする人は、あまりいないと思うしね。
たまたま小さい頃虫を食べさせられた、と言う人がいてね。
酷い親だと思ったら、虫を常食している国に行けば、食べない訳にはいかないからだと教えて貰ったの。
確かに、その人の親は高官ではあったから、なるほどなぁと思って、それからは人前では苦手なものでも顔に出さないようにしていたわ。
私は、平民育ちだけれど、そうやって貰ったヒントはいかしたいじゃない?」
「確かにね。
それでも小さなことに気づいて自分のものに出来る人は、そう多いわけじゃないと思うよ」
「私は過敏すぎて、ちょっとしたことでわざわざ傷ついてしまうからなぁ。
鈍感力が欲しいと思ったことも多いわ」
「あぁ、自分が傷つきやすいから、他人を傷つけることが怖いのか?」
「たぶんね。
何が地雷かなんて、人それぞれなのにね。
それでも一度口にした言葉は取り消せないから、今でも他人と喋るのは怖いかな」
「だから身内になると、急に毒舌家になるのだな」
えへへ。私が笑うと、セレスも笑った。
「こいつめ、確信犯だな。質の悪い奴だ」
「でも、セレスは私を嫌いにならないでしょう?」
「勿論さ。けれどナナ。
人に嫌われることを恐れていたら、息苦しくなるぞ。
もう少し他人を信用しろよ。
嫌う人もいるだろうが、好きになってくれる人もいる。
ナナはナナなんだからな」
私は返事が出来なかった。
そんなことは、勿論知っているけれど……。
そこにアンがやって来た。
「お邪魔でしょうけれど、リーゼロッテさまが、そろそろお勉強のお時間だと仰っています。少しは側近の顔を立てて差し上げないと」
「ありがとうアン。メイド達がいるから、アンは残ってセレスの相手をしてあげて」
アンが礼をしたので、イータとシータに先導されて自室に戻る。
「ごめんなさい、ロッテ。少しはしゃぎすぎたわね」
「いいえ、お友達や婚約者とのお時間は大切ですわ。
ただ、礼儀作法は反復練習しかございませんからね。
寝る前に少しでもと思いまして」
「ありがとう。お願いするわ」
私は、とても甘ちゃんだったらしい。
真っ直ぐに立つことも出来ていなかった。
まさか、立つことがこんなに難しいなんて。
歩くとなったら、もっと大変で1時間もするとへとへとになった。
「うわぁー。マナーを舐めていたわ。
こんなに苦しいなんて」
「基本ですからね。貴族の娘なら幼いころに身に着けるのですが、大人になってからではきついでしょうね。
それでも最初は意識しないとできないでしょうが、そのうち自然に体が動くようになります。
ご安心下さい」
「天の采配に感謝し、私を導く先達の教えを、頂戴いたします。
我が師の道しるべに、感謝申し上げます」
私は、教師に対する聖句を唱えた。
リーゼロッテは、にっこりと笑った。
「ナナ様が素直な方なので、教えがいがありますわ。
既に全部覚えたのですか?」
「まだ、半分よ。でも寝るまでに残りは覚えるわ」
「今日は、ずっと誰かと一緒でしたから、覚える時間もとれませんでしたものね」
「この出会いに感謝を捧げ、寿ぎを申し上げます。
天の御加護がありますように」
「寿ぎを天に捧げ、縁が続くことを願います。
御身に神の御加護があらんことを」
二人でお互いに礼をして、にこりと笑い合った。
ロッテと心が通じたと感じた瞬間だ。
ロッテが出ていくと私は教本を取り出して、せっせと頭に詰め込んだ。
若返った脳は、昔よりはずっと物覚えが良くなっていた。
若い頃は、大人たちがメモをとる理由が分からなかった。
覚えておけばいいだけなのに。
けれど年を取ると、頭にメモすることが困難になっていく。
そうなってやっと、大人達がメモを連呼する理由がわかったものだ。
メモしていてすら忘れてしまう。
そんな自分を受け入れながら年を重ねていた。
今は昔のようだ。
さっと読んだだけで、どんどん記憶されていく。
若いって素晴らしい。
私は教本を放り出し、聖句を唱えながら何度も部屋を歩く。
正しい歩き方。
背中を伸ばして、軸をブレさせない。
視線をさげないで、ほほ笑みを忘れずに。
歩き方に集中すると、聖句が止まる。
聖句に集中すると、軸がぶれて視線が泳ぐ。
なかなか難しいけれど、何だか楽しい。
夢中になっていると、カモミールティが目の前に出現した。
もう寝ろと言う事だろう。
私は素直にお茶を受け取る。
夢中になっていて、喉の渇きを忘れていた。
水分がゆっくりと身体に染みわたる。
興奮していた脳がリラックスモードに切り替わった。
私は深い眠りに落ちていった。
翌朝、リーゼロッテがやって来たから、私たちは一緒に食事を取った。
ロッテはカラトリーの使い方を、時々レクチャーしてくれた。
ちょっとしたコツを掴むだけで、ナイフもフォークも手になじむ。
「ありがとう。わざわざ来てくれて」
「姿勢も、目線も随分上達なさいましたよ。
やはり学ぶ意欲があると、上達も早いですね。
晩餐会などの会食では、もっと小さく切って口に入れて下さい」
「その方が上品に見えるの?」
「いいえ、話しかけられたら、口のなかのものを頬の端っこに舌で押し込んで返事をするためです。
食べ物を飲み込んでから、話をする時間はありませんからね。
食事中、いついかなる時でも、にこやかに返事をするためですわ」
「なんという裏技。
まぁ、私だって会食でまともに食べられるとは思っていないけれど」
「慣れれば食べられますよ。
猛者になると、ここぞとばかり詰め込む者もいますからね」
「どうやって!
コルセットが苦しくて、息だって苦しいくらいなのに」
リーゼロッテはほほ笑んだ。
「食べたい時は、侍女がコルセットを占める時に、お腹に空気をしっかり貯めておくのです。
それで、かなり隙間がつくれますわ」
「それ、侍女にバレない?」
「バレても、いいのです。
だって貧血で倒れるような無様をさらすよりは、余程ましでしょう?
侍女たちにいくら頼んでも、緩めてはくれませんからね。
自衛手段ですよ。
猛者になるほど、お腹に貯められる空気が多いの」
何てことだろう。
あの時、何の自衛策も打たないで、コルセットを締め付けられたから、私は晩餐会で倒れてしまったのだ。
きっと侍女たちは、自衛策を施していると思い込んで限界まで絞ったのだろう。
初心者の失敗あるあるなのだろう。
私は大きく頷いた。
そこにセレスがやって来た。
「やぁ。お姫様方。おはようございます。
一緒に食べようと思ったのに、少し遅かったかな」
セレスは恨めしそうにロッテを見た。
ロッテは席をたつと、食卓を片付けさせた。
「では、私はこれで。
セレスさま。こちらへどうぞ。
ナナ様は、朝の珈琲を飲まれますわ」
凄い。
ロッテはいつの間にか、私が食後に珈琲を飲むことを知っていた。
さすがは完璧令嬢だ。
「ありがとう、リーゼロッテ。
また、あとで」
ロッテは軽く礼をして出て行った。
「ロッテは、マナーをレクチャーしてくれていたの」
「分かっているよ。熱心だからなぁロッテは」
「僕のお姫さまのご機嫌はいいようだね」
「ええ、お昼は全員で食べるでしょう?
だからこの後、リリとお喋りをするの。
お昼のあと、リリたちとダンスのレッスンがあるとロッテが言っていたけれど。
お相手してくれるのよね。セレス」
「勿論だとも。
君のダンスの相手は僕だけさ」
「よかったぁ。セレスは龍だから頑丈だものね。
私、何度足を踏むかわからないもの」
「俺は、安心して足を踏むために選ばれたのか?」
「勿論よ。
か弱いダンス教師の足を、壊すわけにはいかないじゃない」
セレスはまじまじと私を見つめた。
そして私が真剣だと分かると、大笑いをした。
「まったく!君って!」
ひぃひぃ笑いながら、セレスは楽しそうに私を見た。
「いくらでも足を踏んでください、マイレデイ」
セレスは私の指先に騎士みたいに口づけをすると、まだ笑いを堪えながら帰っていった。
あの様子だと、誰かに言いつけるつもりだ。
失礼な奴。
私は、そっとセレスが触れた指先を抱きしめながら、セレスの後を見送った。




