#2.カケルと鉱石ラジオ 後編
2話目後半です
よろしくお願いします
「先生……どうしてこんなところに……」
僕たちは工房を飛び出し、外壁にかけられた細いはしごを使って、屋根の上へと登っていた。
少年は先生の身軽な動きにぴったりとついていき、さっさと登っていく。
ようやく僕も登り切ると、二人はすでにラジオで空を探っていた。
「高い場所のほうが、電波も入りやすい…はず。」
そういうものなのか…?
しかしラッパの奥からは相変わらず何も聞こえない。周囲の工場から吐き出される、リズミカルな排気の轟音だけが風に乗って響いていた。
先生はラジオの感度を探るようにゆっくりと空へ向け、それから、僕たちの住む街の輪郭をぐるりと見回した。
やがて、遠くにそびえ立つ暗い山の稜線を見つめたまま、小さく呟く。
「山。」
「え。」
「囲まれてる。」
「たしかにこの街は高い山々に囲まれてますが…。」
ほんの少しの沈黙。
少年が、あからさまに肩を落とした。
「じゃあ…ダメじゃん……。」
先生は視線を泳がせ、少しだけ考えた後に
「いや。」
と言った。
「一か所だけ、届くかも。」
「どこですか?」
先生は街の中心地のほうを指し示す。その先にあるのは、街のどんな建物よりも高くそびえ立つ、巨大な建造物だった。
「蒸気塔。」
言うなり、先生はすっと立ち上がった。
「行こう。」
「えっ、今からですか!?」
「今。」
白く温かい蒸気に包まれた街を、三人は歩いていく。
蒸気塔へ行くのは容易い。
問題は…どうやって上まで行くかだ。
「なぁなぁ兄ちゃん、蒸気塔って、あれ何なの。」
「なんだ、学校で習わなかったのか?」
この街の人間なら、誰でも目につくランドマーク。
幾重にも張り巡らされた金属配管と、無数の巨大な圧力計が埋め込まれた真鍮色の塔。その頂部からは、二十四時間絶え間なく白い蒸気が噴き出している。
「あれは言うならば街のシンボル。超大型の集約ボイラー施設だ。」
「ボイラー…ってことは、あそこで蒸気を作ってんの?」
少年は駆け足になったり、立ち止まったりを忙しく繰り返しながら歩いている。
「そう、あそこで集中的に高圧の蒸気を作って、太い地下配管を通して街中に配ってるんだ。」
「じゃあ、家のお風呂も?」
「工場も、屋台の動力もね。この街で蒸気で動くものは、ほとんど全部あそこのおかげさ。そして——」
「その全ての機械に関わるのが、蒸気技師の仕事。」
先生はそれだけ言うと、さっさと僕らを引き離して先を歩いてしまった。
「あ、先生、ちょっと待ってください!」
「急げー!」
少年まで走り出す。
「だから走らないでください!」
結局、僕まで息を切らして追いかける羽目になった。
このエリアまで来ると、石壁をつたう高圧配管が、人間の胴体ほどもある太さに変わっていく。地面の底からゴウンゴウンと響く、巨大なピストンの駆動音も皮膚を震わせる。
曲がり角を抜けたところで、先生と少年が足を止めていた。
「おぉ…。」
少年の口から、感嘆の声が漏れる。
目の前に現れたのは、巨大な真鍮の要塞———蒸気塔。
無数の配管が複雑に絡み合い、時折り「プシュー!」という凄まじい音と共に、真っ白な熱い蒸気を勢いよく吐き出している。
街のどこからでも見えていた建築物が、いざ真下から見上げると、神罰でも下りそうなほどの圧倒的な存在感で僕たちを威圧していた。
「着いた。」
「着きましたけど…。」
僕は入口を探したが、そこには無骨な鉄網の門があり、これまた巨大な錠前で固く閉ざされていた。
門には『関係者以外立ち入り禁止』と、威圧的な文字が書かれた看板がぶら下がっている。
「……入れないじゃん。」
少年がつま先立ちで金網を見上げる。
「先生…どうするんですか。」
僕が建物から先生のほうに視線を移すと、なにやら袖をゴソゴソと探っていた。
「これのどれか。」
袖口から出てきたのは、じゃらりと不快な音を立てる、古びた真鍮の鍵束だった。
先生は一本ずつ不格好な鍵を見比べると、その中から一際小さな、シンプルな一本を選び抜いた。
ガチャ
「え、開いた…?」
キィィィ…と、重厚な門が、鈍い音を立てて開く。
「姉ちゃんスゲー!」
先生は誇らしげに、しかし当然のような顔をして門を押し開け、僕らを中へと手招きした。
「さあ行こう。中は危ないから外階段。」
どうしてただの街の職人である先生が、この街の最重要施設の鍵を持ってるのか…。
考えるだけ無駄だ。
先生とはそういう理不尽の塊のような人なのだから。深く追及するのはやめておこう…。
先生を先頭に、僕たちは冷たい鉄骨で作られた非常階段をひたすらに登り始めた。
「はぁ…はぁ…。もう無理…。」
「兄ちゃん遅い!置いてっちゃうぞ!」
「君たちが早すぎるんです…っ!」
先生は前を向いたまま、淡々と、まるで平地を歩くように等速で階段を登り続けている。
呼吸一つ、乱れていない。
「先生…なんで、そんなに平気、なんですか……。」
「慣れ。」
絶対に違う…。
普段、工房であれだけだらしなく引きこもっているくせに、一体どこにそんな体力が隠されているというのだ…。
「兄ちゃん、大丈夫?ほら、もうちょっとだよ!」
一体どこまで登るのだろう…。すでに足元の家々は、豆粒のように小さくなっている。
時折、塔の放熱スリットから吹き出す熱風と白い煙に、身体ごと吹き飛ばされそうになるのを必至で堪える。山の間に沈みかける太陽が、僕たちの影を長く、薄く伸ばしていた。
「到着。」
「くそー!二番だった!」
ぜえ、ぜえ、と肺が焼き切れるような呼吸を繰り返しながら、僕はなんとか二人の背中に追いつき、屋上のプラットホームへと転がり込んだ。もう脚の感覚がない。
冷たい風が、僕の濡れた額を撫でていく。
息を整えながら、僕は生まれて初めて、自分たちの住む街の全景を見下ろした。
立ち上る、幾千もの白い煙。
規則正しく並ぶ工場の煙突。
灯りが灯り始めた市場の広場。
そして、山に吸い込まれる線路を、煙を吐きながら外へと進む蒸気機関車の黒い影。
「なぁ。」
少年が手すりにしがみついたまま、ポツリと言った。
「外の世界って、どんな匂いがするんだろ。」
先生は何も答えない。ただ、持ってきたラジオを取り出すと、細い銅線の針先で、静かに音を探り始めた。
「姉ちゃんは外、行ったことあるんだろ?」
先生は少しだけ手を止め、遠い山の端を見つめてから口を開いた。
「いろんな、匂い。」
「え…?」
「海もあった。しょっぱくて、青い。」
「海!?」
「空も、この街よりずっと、広かった。」
少年は、その言葉をなぞるように、夕闇に染まりゆく空をそっと見上げた。
「見てみたいなぁ…。」
外の世界への、純粋な憧れ。
この狭い山の街で生まれ育った僕にも、少年の抱く胸の熱さは、わからなくもなかった。
その時、一陣の強い風が吹き抜け、塔の周囲を覆っていた蒸気の煙を鮮やかに消し去った。
ザッ…
ザザッ…
「あ!」
「しっ」
全員が息を止める。
『……こち…ら…』
少年の瞳が、これ以上ないほどに大きく見開かれる。
「先生!」
「静かに。」
銅線を蒸気石の表面に当てる先生の指先が、ミリ単位——いや、ミクロン単位で繊細に動く。
ザー…
『———放送の…』
「「聞こえた!」」
僕と少年が歓声をあげる。
次の瞬間。
——ゴォォォォォ!!!
耳を瞑りたくなるほどの凄まじい爆音とともに、蒸気塔の安全弁が一斉に解放された。周囲は瞬時に視界ゼロの真っ白な蒸気に包まれ、あらゆる音が力ずくでかき消される。
——ザ、ザー、ザザザザザ……。
やがて蒸気が晴れたとき、ラッパの奥から聞こえるのは、ただの冷たい音だけに戻っていた。
しばらくの間、誰も言葉を発することができなかった。
聞こえたのは、本当に一瞬。ほんの、ほんの一瞬だけ。
ただ冷たい風の音だけが、やけに大きく響いていた。
僕はたまらず少年の顔を覗き込んだ。泣いているかもしれない。そう思ったのだ。
しかし、少年は涙を浮かべながらも、誇らしげに、少し悔しそうに笑っていた。
「ほんとに、あったんだ。外の世界。」
——————
帰り道、しばらく誰も口を開かなかった。
すっかり暗くなった非常階段に、三人分の乾いた足音だけが規則正しく響く。
カン。
カン。
カン。
少年は鉱石ラジオを胸にしっかりと抱えたまま、ゆっくりと階段を降りていく。
やがて、その歩みを止めずに、小さく笑った。
「……聞けた。」
「うん。」
先生が短く返事をする。
「一瞬だったけど。」
「うん。」
それだけで十分だった。
教科書の中でしか存在しなかった外の世界。
電気、海、広い空。
僕たちにとっては、どれも絵本の中に閉じ込められたファンタジーのようなものだった。
けれど今日、ほんの一瞬だけ。
確かにこの街の外から、誰かの「生きた声」が届いた。
外の世界は、本当にある。
少年は胸のラジオを見つめながら、小さく、夢を語るように呟いた。
「いつかさ。」
少し照れくさそうに笑う。
「オレも、行けるかな。」
先生は歩調を緩めることなく、少しだけ考えてから、あっさりと答えた。
「行けばいい。」
あまりにも簡単に言うものだから、少年は拍子抜けしたように吹き出した。
「そんな簡単に言うなよ。」
先生は暗闇の中で、前を見つめたまま言葉を紡ぐ。
「壊れたら。」
「え?」
「また直す。」
「……ラジオ?」
「うん。」
「そっかぁ。」
「君も。」
少年は一瞬きょとんとして足を止め、それから、今日一番の大きな声で笑い声を上げた。
「なんだよそれ!」
先生は不思議そうに首を傾げる。
「壊れる、かも。」
「縁起でもねぇ!」
夜の非常階段に澄んだ笑い声がカラカラと響き渡る。
そのやりとりを聞きながら、僕の口元も自然と緩んでいた。
先生は、いつもそうだ。
機械を直しているようで。
気づけば、少しだけ壊れかけていた人の背中まで押してしまう。
街へ戻る頃には、山の向こうはすっかり深い藍色の夜に包まれていた。
少年は鉱石ラジオを抱え直す。
それはもう、壊れた物を抱えるようにではなく、大切な宝物を抱えるような。
あの険しい山の向こうには、まだ見ぬ世界が確かに広がっている。
今日聞こえた、ほんの一瞬の声は、その証だった。
いつか。
自分の足で、その続きを聞きに行こう。
そんな少年の小さな背中を、蒸気の街を優しく吹き抜ける夜風が、そっと押していた。
今回の創作にあたって、実際に鉱石ラジオについて詳しく調べまくりました。
電気もないのにラジオが聞こえるなんて、不思議機械ですよね。




