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二章 五

二章 五




 必要なものになろうって思ったの。

 だから、森を駆け抜ける。来た時と同じように。けれど、正反対の方向へ。



「俺だっていらねぇ!」

 橙と唐紅花の色違いの双眸が、私の心まで見透かすような強い光りで私を射竦める。竦められてしまうのは、私が自分で思っているから。知っているから。

 この人の優しさに甘えている自分を、知っている。この人にそれを見透かされてしまったら、恥ずかしくていられない。何より恥ずかしかったのは、そんな自分を知っているのに、このままずっと傍にいられるんじゃないかってどこかで思っていたこと。

 それと何よりも。私は、樹宝さんを傷つけた。

 初めて会った時から「帰れ」とか「投げ落とすぞ」とか「不味い」とか色々言われたけど、決して私を見捨てたりしなかった。こんな面倒な小娘なのに、口では何を言ってもいつも樹宝さんはいつも必ず。

 寝込めば傍で看ていてくれた。不味いって言うのに、何度も食べてくれた。

 じわって熱いものが目に溢れて視界を邪魔する。恥ずかしい。本当に傷ついているのは、目の前の誰よりも優しいこの精霊(ひと)なのに。散々甘えて私はまだ甘えようとしてる。

 私を射竦めた色違いの双眸。その奥で『私』を『傷つけた』って思っているのがありありとわかるこの人に、まだ甘えようって言うの? そんなの、許せない。誰が許したって、私が私を許せない。

 でも、本当に情けないけど、そこに立ったまま樹宝さんを直視する強さも今の私にはなくて。

 背を向けて駆け出す。一度走り出したら、止まらなくなった。

 どうすれば、私はあなたの傍に居られるの? 居ても、恥ずかしくないって思えるようになるにはどうしたらいい? 何でここに来たのか聞かれて、胸を張って答えられない。答えられるはずない。

 私は、逃げただけ。夢のように優しい場所へ、そこにいる優しい人の傍でただ大切にされて喜んでいただけだから、言えない。

 一番、最初に、森に足を踏み入れた時は、悔しくて。哀しくて。死んでもいいから少しでも前に進むだけだった。

 苦しい。息が詰まって、足元はもつれて。後一歩踏み出したら死ぬかもしれないって思いながら私はただひたすら妄執のように前を目指してた。でも結局、死ななかった。森なんて抜けられるはずも無かった私は、森どころか峰も越えて、あの人の元へ辿り着いて。

 沢山の奇跡。でも一番の奇跡は、あの人に、樹宝さんに会えた事。

 樹宝さん。樹宝さん、樹宝さん。

「わたし、は」

 もう知ってる。どんなに苦しくても、私の鼓動は走ったくらいじゃ止まらない。

 そんなくらいで止まるほど私は潔くない。

 熱く滲んで歪んだ視界が白く染まる。私は、森を抜けていた。





「マーシュ、悪いんだけどさぁ」

「あら。メイサさん。お子さんあれからどうですか?」

 洗濯籠を抱えて振り返ると、恰幅と笑顔の良い先輩のメイサさんがすまなそうな顔をしつつ私に昼食の入った包みを掲げて見せた。

「良くなったよ! 本当に助かった。それでね、薬がそろそろ切れそうなんだけど」

「ああ。ええっと、ちょっと待ってくださいね」

 森を抜けた先にあったのは、あの生まれ育った村ではなく、その隣に位置する別の村だった。

 抜けた方向がそうだったのか、それとも私があの村に行くことを無意識に拒んだのかはわからない。

 金色の黄昏に染まった道を歩いて村で一番大きなお屋敷の扉を叩いて、下働きとして雇ってくださいと頼み込んでからそろそろ一月が経つ。

 私の仕事は洗濯係りのランドリーメイド。最初は雑役メイドとして入ったけれど、洗濯係の手が足りなくなった時に手伝ったのがきっかけでそちらに移っている。

「お待たせしました。お薬のことだけど、息子さんの様子を聞かせてくれますか? あと、できれば直接様子を見たいです」

 洗濯籠を置いて昼食を受け取ってからそう言うと、メイサさんはちょっとだけ眉を下げて上目遣いに私を見る。こういう時の彼女は年上だってことを忘れるくらい可愛いと思う。

「薬がもらえれば大丈夫だと思うんだけど」

「だーめ。症状を知らずにお薬は出せません。お薬で何でも治していると、身体が怠けるようになっちゃうから、もっと病気になりやすくなっちゃうし」

「そうなのかい?」

「ええ。だから、治り掛けで問題ないならそのまま自然治癒に任せたほうがいいの。もちろん、まだそこまで回復してないならお薬を作るけど、この間の様子なら今渡してあるお薬を最後まで飲みきれば大丈夫なはずですよ」

「マーシュがそう言うならそうなのかもね。わかった。じゃあ、明日息子を連れてくるから」

「はい。でも、良かった。お薬が効いてくれて」

「本当に感謝してるよ。でも、いいのかい? 本当にお礼がこんなので」

 干し終えた洗濯済みのシーツが風に気持ちよくそよぐ庭の木陰で腰を下ろして、メイサさんから受け取った包みを開く。中に入っていたのは木苺(ラズベリー)馬鈴薯(ポテト)、キノコの半月パイ。一口食べれば素朴で甘酸っぱい味がいっぱいに広がる。

「十分です。だってメイサさんの作るパイは絶品だもの」

「ありがとう。本当に助かったよ。マーシュがいなかったら息子はきっと今頃、土の中だったからね。それでも、あたしにゃ医者の先生に診せるあても無かったし」

 私が入って間もなく洗濯係が足りなくいなった理由の一端はメイサさんだった。 村ではメイサさんの息子さんと同じ病が流行り始めていて、それぞれの事情もありお医者さんに十分診せる事が出来ていなかったから。

「まだ初期症状だったし、たまたま私のお薬でどうにかできるものだったからですよ。そうじゃなきゃ、私にもきっと、どうにも出来ませんでした」

「いいや。それだけじゃないよ。マーシュがほとんどただみたいなもんで薬を処方してくれたからだ。あたしたちみたいなもんには、村の外までお医者を呼びにいけない」

 呼べない理由は、時間とお金。お医者さんのいる一番近い街までは人の足で片道三日。足で往復しようとしたら、六日は最低でもかかってしまう。馬を使えば約半分の時間で済むし、農業を主にしているここで馬に困ることはないからその心配は薄いけれど、折角お医者さんが呼べても今度は診察料と薬代が払えない。時間というのは、呼びに行くことに対してじゃなく、『薬代を稼ぐ』事に対するもの。

 薬はどんなものでも高価だから。

 でもどんなに高価でも、使い方を誤れば意味は無いのだと、私にお薬についての師事をしてくれたビオルさんは教えてくれた。「過ぎれば毒だしぃ、足りなくても効果はでない。何事も適量適度だねん」そう言って、私自身のお薬の処方の仕方や色々なお薬の作り方を教えてもらったから、助けることができて。

「私がお薬を作れたのは作り方を教えてくれた先生がいたからです。私はまだ一人前ではありませんし、だから」

「わかってる。マーシュは息子の恩人だ。約束は守るよ。でも変な事言うもんだね。なるべく秘密だなんて。そんだけの腕があればお医者としてこんな仕事することもないだろうに」

「私は半人前で、花嫁修業中ですから」

「あんたを振るなんざ、どんな男だか。もったいないことするよ」

「ふふ。そうなりたいなって思います。もったいないって思ってもらえるくらい」

 必要なものになろうって思った。今度は逃げ込むんじゃなく、ちゃんと「お嫁に来ました」って言えるように。胸を張って樹宝さんの前に立てるように。

「ねぇ、お相手っていうのはあのおっかないくらい綺麗な男の人かい?」

「え? ふふ。氷……エイスさんは違います。あの方はお友達ですから」

 村で働き始めてからほとんど間もなく、氷冠さんと炎天さんは私を訪ねてくれた。

「リトちゃん」

 夕焼けの茜に建物も景色も染まる時間、呼ばれて振り返れば恐ろしいくらい目立つのに、何故か景色に溶けそうなお二人の姿。

「フレアさん! 氷冠さん! どうしたんですか?」

「あら。どうした、なんて事はないわよ? アタシたちはいつもあなた達の側にいるものなんだから」

「……フレア?」

 氷冠さんが片眉をひょいと上げて隣に立つ炎天さんを見る。

「ふふん。いいでしょ? リトちゃんだけが呼ぶアタシの、な・ま・え」

「…………」

 氷冠さんは炎天さんの言葉に少し眉根を寄せた後、私に薄水色の瞳を向けた。

「火のだけを、特別に呼ぶのは、不公平では」

「氷冠さん?」

「ふ。あはは! リトちゃん、つまり、これは焼きもち」

 ああ、炎天さん。みょーんて氷冠さんのほっぺ摘んで引っ張ってますけど、氷冠さん睨んでますよ?

「火の」

「呼んで欲しかったら、アンタも呼んで貰えばいいじゃない。アタシは自分で頼んだのよ」

 氷冠さんのじろりとした睨みも笑い飛ばして、炎天さんは形の良い胸を反らす。

「リト」

「はい」

「……エイス、と。私はそれでいい」

「はい! エイスさん」

 私が名前を呼ぶと、氷冠さんは仄かに雪解けみたいな微笑を浮かべて頷いた。

「さて、リトちゃん。アタシたちはお迎えに上がったんだけど、どう?」

「……それって」

「狭間に帰らない?」

 炎天さんも氷冠さんも、遊びに出た子供に、そろそろ時間だから帰ろう、って言うような感じで誘いかけてくれる。受け入れてくれようとしている。

「それは、樹宝さんがお呼びなんですか?」

「いいえ。アタシたちの判断。独断? かしら」

「じゃあ、まだ帰れません」

 わざわざ迎えに来てくれたお二人に、失礼な事だとは思うけれど、ここで帰ったらきっと私はまた甘えるだけだから。

「何故」

「私、樹宝さんにちゃんともう一度、お嫁さんにして下さいって、言いたいんです」

 その為に、もっと私は強くならなくちゃ。大事にされてばかりじゃ、何も変わらない。

「何もそこまで、樹宝の為に尽くしてあげる必要なんてないのよ?」

「尽くすというより、これは私のわがままです」

 献身なんておこがましい。これは私のわがまま。あの優しい人と向き合う為に私が欲しているもの。

「お掃除もお洗濯も、それからお料理も。まだ一人前のお嫁さんとして足りません」

「樹宝は精霊だ。そのようなものは無くても支障ない」

「はい。だから、私のわがままです」

 何も自分でしてこなかった今までと、同じ事を繰り返しながら好きな人の隣には居られない。

 そんなんじゃ、いつまで経っても私は変われない。樹宝さんの瞳を見られない。

「ふーん。まぁ、それなら仕方ないわね。アタシはリトちゃんの意志を無視はできないもの」

 アタシも自分の意志を無視して何かされるなんて御免だものね。そう言って、炎天さんは笑って肩を軽く竦めた。

「ねえ、でも、リトちゃん。帰って来るのよね?」

「はい。必ず、もう一度。皆さんに会いに」

「そう。じゃあ、いいわ。ね? 氷冠」

「嗚呼。異論無い」

 金色の瞳を煌かせて、炎天さんがウィンクする。

「待ってるわ」

 炎天さんはそう言って踵を返して、次の瞬間にはまるで陽炎の様にその姿を消していた。

「リト。帰りたくなったら……迎えが必要になったら、呼べ」

 残った氷冠さんが静かにそう言った。

「ありがとうございます。エイスさん」

 氷冠さんは少しだけ笑って森の方へと踵を返し消えていった。炎天さんと氷冠さんはそれからも大抵は他の人がいない時に現れて、お話をしたりして。

 その時にメイサさんが一度、その姿を見かけていた。他の人が近づく気配を感じるとお二人ともそれとなく帰ってしまうから、メイサさんや見かけた人が直接話す事はないけれど。

「あれ? え! 君!」

 メイサさんとの昼食に響いた声に現へと引き戻され、そちらを見て、裏庭の入り口から近づいてくる人が、誰かわかった頃には遅かった。

「これはっ、坊ちゃま、お帰りになったんで?」

「メイサ、この人は何故こんな格好でここにいる!」

「え?」

「ミルリトン・マーシュ・マロウ。この人は、隣村の先代領主様の娘だぞ」




「失敗しちゃった……。奥様にはばれなかったから油断してたわ」

 春も終わって夏の足音と気配がすぐそこまで迫っている明日、私の結婚式が開かれる。

 花婿が迎えにくるまで滞在するようにと通された部屋の中、私は部屋に鎮座するトルソーが着る自分の花嫁衣裳を見てため息をつく。メイサさんは絶句して、その後は屋敷中は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。奥様にお会いした時はごまかせたけど、息子のジョシュにはそう上手くいかなかったのは、当然といえば当然なのかもしれない。

 ジョシュは、子供の頃はすぐに消えてしまったけれど婚約の話も出たことがある相手。理由はもちろん私の病で伏せることの多い健康状態。随分会っていなかったからまさかわかるとは思ってなかったのに。

 思えば、それでも大人は大人同士、子供は子供同士での交流が多いのだから、交流時間の少なかった奥様は誤魔化せても、同じ目線の相手は誤魔化せない可能性が高いと思っていなければいけなかった。

「唯一の救いは、ジョシュに好きな人がいてくれたことね」

 私の正体がばれてから、メイドの仕事はできなくなった。客人として留まり、私だと確認する為に叔父様が呼ばれて神隠しにあった娘がここで見つかったのは運命だと、奥様と叔父様は意気投合。口を挟む間もなく、とっくの昔に消えたはずの婚約話がいつの間にか決まっていた。

 けれど、私たちはどちらも正反対の答えを出していて。

「ごめんなさい。私、お嫁さんになれません」

「やっぱり。いや、謝る事はないよ。僕も同じだから。あ、もちろん君が嫌いとかいうわけじゃないよ?」

「はい。私も同じですから。……そのお言葉からすると、あなたも他にいらっしゃるのね」

「うん。母さんに言う前にこうなったのは……僕の責任だね。ごめん」

 互いに心の向く相手が違う私たちが出した答えは、夜になったら私がこっそり逃げ出すこと。

「でも、それじゃ君の名前に傷がつく」

「私はあなたの顔に「初夜で花嫁に逃げられた」って泥を塗るのだから、おあいこです。それに、正攻法の正面説得が無理そうですから、仕方ありません」

 きちんと話して解決するのが一番良いのはわかっているけれど、当人たちを差し置いて意気投合している状態の叔父様たちに何を言っても止められない。話したら抜け出すこともできなくなってしまう事すら有り得て。それだけは困る、というのが私とジョシュの共通した意見だった。

「リト」

 扉の向こうから掛かった声に応えて開けると、そこには叔父様が立っていて。

「叔父様」

「すまないね。こんな時間に、親族といえど花嫁の部屋を訪れるのは宜しくないとは思ったのだが。明日この館に嫁ぐ君とは中々会えなくなるから」

 叔父様は私が発見されたと聞いて飛んできたけれど、再会した時もそれからも、私の顔をはっきり見ようとはしない。何となく、それは理解できてしまう。

 きっと、後ろめたいから。

 叔父様は、私と同じ。樹宝さんの瞳を見て答えを返せなかった私と。

 それから、きっと叔父様は私が何か得体の知れないものに見えているんでしょう。

 時折見え隠れする、気味悪がるような恐れ。

 それも無理は無いと思うけれど。

 私だって、昔の身体を思えば奇跡としか言えないと思うのだもの。森に踏み込んで無事に生きて、しかも隣の村に辿り着くなんて昔の私に出来るはずもない。だから、叔父様は心のどこかで私を気味悪がっている。ここにいる私が、本当に自分の姪の『リト』なのか。本物でないならそっくりの姿かたちの得体が知れない何か。

本物だとしても、有り得ない変わりようと追い出したという後ろめたさ。

「いや、でも良かった。ジョシュ君の元なら安心だ。あれほどの青年は滅多にいないからな。きっと幸せになれる」

「叔父様」

「実に喜ばしい! 明日の晴れ姿もきっと素晴らしいものになる。生きていたら兄さん達もきっと喜んだだろう。君は幸せな花嫁になる」

「叔父様。私は、もう」

「ああ、そうだな。すまない。明日は大事な日だ。お暇するよ。ゆっくりお休み」

 叔父様は、私と目を合わせないまま、逃げるように立ち去っていった。

 ふぅ、と溜め息が零れる。叔父様に悪い事をしてしまったし、これからまだする。 本当にあの時の私は何も考えていなくて、ただ逃げて、こんな風に先があるなんて考えていなかったから。

「ふふ。でも、少し不思議」

 窓の向こうは夜の闇。その向こうに狭間峰が見える。

 きっと、あの日々を経験する前の私なら、叔父様たちの決めた結婚に異議を唱えることも、まして結婚式を脱走なんてことも考えなかった。

「でも、私は」

 樹宝さんの所へ、いつか帰る。

 あの人に、胸を張ってもう一度、今度は逃げるんじゃなくて、言いたい。

 その為にあの暖かい場所から外へ。あの人に相応しい自分になる為に。

「花嫁修業、また違う所でやり直さなきゃ」

 少しだけまだ不調をきたす事があるけれど、私の身体は人並み程度には強くなった。

 お洗濯もお掃除も、自分の事くらいは出来るようになった。

「あとは、お料理をもっと頑張らなきゃ」

 呟いた声に、返るはずの無い声が聞こえた。

「頑張り過ぎのきらいがなくもないけど」

「木涙さん!」

 音もなく、そこに立っていた綺麗な女の人。地の精霊で、ビオルさんの次に私の先生になってくれた人だった。

「リト。結婚するの?」

「いいえ。だって私はもう一度お嫁にいってますから。私は結婚できません」

「……そう」

「ごめんなさい」

「……? 何故、謝るの」

「だって、木涙さんは、樹宝さんから離れて欲しいって言ってるのに」

 それは今になっても、そしてこれからも叶えられない。私は必ず帰るって決めているから。

 だからそう言ったのだけれど、木涙さんはパチパチと目を瞬いた。

「違う」

「え?」

「私は……、手放しで言祝ぐわけにはいかない。けど、リト、あなたを樹宝から引き離したいわけじゃない」

 深い木涙さんの瞳が揺れる。

「リト。あなたはこの世界が空の上にあった話を知っている?」

「空の上、ですか?」

 子供の頃に聞いたことがあったかもしれない。それは遠い昔、言語の統一がなされる前。空に大陸は浮かんでいて、ある出来事の所為で地上に落ちた。

「空の上にあったこの大地。けれど、引き裂かれて今は空とこことに別れてしまった。私は地を司るもの。その痛みを、嘆きを、忘れられない。だから怖いの」

 言った木涙さんの瞳は何かを恐れるように閉じられた。

 その瞼の裏には、その時の光景が蘇っているのかもしれない。

「樹宝の前。まだ空にあった頃、大陸の心として立っていた精霊は、一人の人間の願いを叶えようとして大陸を落とした」

「え?」

「あの人は、大陸に住まう全てを愛していた。とりわけ、人間を。だから、泣いているその人間を泣き止ませたかったのだと、思う」

 先代の大陸の心は訊いたのだと言う。どうすればあなたは泣き止むの? と。

「願われたのは、世界を壊す事。それは、大陸を壊すのと同意義」

 それでも、その大陸の心は躊躇わなかった。それが例え自分を殺す事だとしても。

「一度聞き入れた願いを、誓約を、破棄する事はできない。けれど、全ての生き物が大陸と共に滅ぶことを望むわけじゃない」

 だから、滅ぶことを止めようとした人たちが居た。

「人間と妖と精霊、そして……限りなく人に近いハザマと、ビオル」

「ビオルさん?」

「ビオルは、先代が唯一つ創造した、ヒトガタ。先代と同じ時を共に生きるように創られた者。人間で言えば、子にあたるかもしれない」

 親子ではなく、その在り方は主従のそれだったと思うけれど。

 木涙さんは、そう言って瞳を開く。

「人の形に近い者。人の世の観測者。大陸の心の目であり耳として、全てを観るもの。誰よりも、先代を思っていた。けれど」

 私たちがここにこうして生きているなら、そして今の大陸の心が樹宝さんに移っているなら、その答えは……。

「ビオルは、先代を封じる事に力を貸した。ビオルの助力がなければ、大陸の心の元への路は開かない」

「…………」

「それを、ずっと悔いている。そんな必要は無いのに。だって、封じられる事を望んでいた」

「望んで……?」

「一度した誓約を破るわけにはいかない。自分自身では。けれど、先代はただ一人だけを愛したわけではないから。あの人は大陸に住む全てを平等に愛していたの」

 他のものを巻き込んでしまうのは、本意ではない。けれど、自分でした約束を破るわけにもいかない。

「それをビオルもわかっていた。同時に、ビオルはその止めようとした者の中で後の人柱になるハザマと、恐らくは一番、仲が良かった」

 人柱。その言葉に先がわかり、私は思わず息を呑んで。

「この大陸は、ビオルたちが止めたことで二つに別れたけれど、全てが壊れることはなくなった。そのハザマは別たれた空を支える礎になり、この地には先代を封じ、新たな大陸の心を生み出して」

 一つ息をつくような間をおいて、木涙さんが私を見る。

「樹宝は、そうして生まれたの。だから、あの子はビオルにそんな思いを二度とさせたくないと思っている。それは、私たちも同じ。リト」

 大きすぎる話。私たち人間にしたらもう御伽(おとぎ)(ばなし)になるような昔の事だけど……。

「あなたたちには、きっと物語。けれど、私たちには、過去なの。遠くない。思い出して、痛むくらいの時間しか経っていない」

 人間と精霊の時間が違う。当たり前と思っていた。けど、きっとそんな私の考えでは及ばないくらい、大変な事なんだと思う。

「私は、言い方が上手くないみたいだから、また誤解させてしまうかもしれないけれど」

「…………」

「あなたを、嫌っているわけじゃない。樹宝に相応しくないと、言っているわけでもない。ただ、怖い。繰り返されるのが、怖いの」

「木涙さん」

 嗚呼どうして、精霊の人ってこんなに……。

「リト?」

 両手を伸ばす。暖かくも冷たくも無い、精霊さん独特の体温の肌。木涙さんの肌は少し雨上がりの森みたいな匂いがする。その頬に両手で触れる。

「木涙さんが、私を嫌っているなんて、思ってないです。 樹宝さんが教えてくれました。お名前、教えるのって、嫌っている人にするような事じゃないって」

 私よりも年上の綺麗な女の人。けど、どうしてかな。今、目の前に居る人は泣き出しそうな子供みたいに見えて。

「私、樹宝さんとは別ですけど、木涙さんも、ビオルさんも、氷冠さんと炎天さんも大好きです」

 出会った日から、皆が入れ替わり立ち代り、会いに来てくれた。木涙さんは、ビオルさんにお薬を習っているって言ったら、「薬草なら、私も詳しいのよ」って言って、それからお勉強の時間にはいつの間にか側に来てくれて、色々教えてくれた。もう一人の先生。

 氷冠さんと炎天さんは、いつも二人でやって来て、気分転換にと連れ出して狭間の森や山を案内してくれた。

「私には、少し大きすぎて、本当にわかっているかって聞かれたらちょっと自信が無いんですけど、さっきのお話も、なんとなくわかります」

 心細そうな瞳に自分の顔が映る。

 精霊さんの瞳は皆、どこまでも深くて―― 鏡のように澄んでいる。

 怖くなって、目を背けてしまいたくなるくらい。

 だけど、私はもう逃げません。

「約束します。私」

「駄目。軽々しく、約束を口にしては駄目。人間にはどうという事がなくても、どんな小さなものでも、私たちには絶対なの」

 イヤイヤと、か弱く首を横に振ろうとするその頬を少し強く包む。

「わかってます。前の精霊さんが約束の為に世界を壊そうとしちゃった事。一度約束したら、破れない事。破ったら、きっと今度こそ、側に居られなくなる事も。」

 約束をする。それは人間の私たちがするよりもきっと大事で、重い事なんだと思う。

「だから、私も破ったら側に居られないって事を、約束しようと思うんです」

 破ったら、樹宝さんの側に居られない。優しい精霊さんたちの側にも。そんな約束を、しようと思います。

「私は、世界の終わりなんて望みません。この先、どんなに酷い事が起こったとしても、世界を恨んだりしない。樹宝さんを、死なせるようなことは絶対に願わない」

 大きく瞠られた緑の瞳。その色は、狭間峰の梢色。

「私は弱いです。樹宝さんのお嫁さんになりに行ったのも、居場所がなかったから。 逃げて、樹宝さんたちの優しさに甘えて。だから、樹宝さんにどうして来たんだって訊かれて、樹宝さんを見られなかったです」

 覚悟なんてできていなかったんです。

 本当の自分を、自分の口から、本当に好きな人に言う覚悟。

 そんな弱い、臆病な自分に、さよならを。

「私、樹宝さんを幸せにします」

「え……?」

 たくさんの優しさを貰いました。

 だから今度は、私が返す番です。

 にっこり笑って、私は誓う。

「世界の終わりなんて願いません。そんな必要なんてないくらい、私も幸せになってみせますから」

 私が、変わろうって思えたのは、樹宝さんたちがいたから。樹宝さんたちと会えたから。それは、何気ない事に見えて、実際は途方も無い奇跡。

 それを今の私は知っているんですから。

「だから、必ず樹宝さんの元へ戻ります。それで、樹宝さんを幸せにして、そうしたら、木涙さんたちも幸せになれるんでしょう?」

「…………」

 木涙さんたちが再び世界の終わりを願われる事を怖がるのも、樹宝さんが過去の傷を抱えたビオルさんをまた悲しませたくないのも、わかるから、だったら、まとめて幸せにできるように。

「リト。あなた」

「はい」

 不思議なものを見る様な木涙さんの瞳。それから、綺麗な地の精霊さんは泣きそうな顔で笑う。

「綺麗になったわ」

 え。今、目の前にいる私よりもずっと可憐系な美人さんに言われても複雑です。

 するりと、自然な動作で私の手を頬から離して、木涙さんが言う。

「そうね。あなたが樹宝に壊れて欲しいなんて願うはずない。それなら、ビオルも同じ思いなんてしない」

「させません。樹宝さんは、私が絶対幸せにしますから」

「……。そうね。樹宝はその方がいいかもしれないわ」

「はい! 樹宝さんに好きになってもらえるようにもっと頑張ります」

 気合を込めて宣言したけれど、何故か木涙さんはぴたりと動きを止めました。 止めたと言うより、凍りついたような……?

「…………」

「木涙さん?」

「リト。あなたもしかして……」

「?」

 よろりとよろめいて、木涙さんは近くにあったテーブルに手を突きました。

 片手を口元に当てて、何故か信じられないものを見るような目がこちらに向いているのは何故でしょう。

「樹宝……」

「木涙さん? あの、どうしたんですか?」

 私の先生その二である精霊さんは、呻く様な声で樹宝さんの名を呼んだ。

「いいえ。気にしないで。ただ、少し、本当に少し、情けなさに、眩暈がしただけなの」

 一つ一つ区切るような言い方と顔色に気にするなというのは無理があったけれど、木涙さんはふと、テーブルの上に置かれた冊子を手にして。

「これは?」

「あ。それは」

 私は客人として迎えられてから書き続けていた冊子を見られて少し、気恥ずかしくなる。

「お父様やお母様のように人の役に立てるようになるのはまだ先ですけど」

 お父様やお母様が亡くなった時、思った「私じゃなくなんで二人が」という思いはまだ胸にある。私よりも、あの二人が生きていた方がきっと成し遂げられることも多かったと、思うことも消えない。

 だから、あの二人が成し遂げたかも知れないことと同じくらい、私もできる事をしようと今は思っている。

「とりあえず、私が知っている限りのお薬のレシピを書き残しておこうと思って」

「……簡単なものばかりね」

「はい。木涙さんやビオルさんに教わったお薬で、比較的簡単で材料が手に入りやすいものだけを」

「何故?」

「知識もなくお薬を作るのって、危ない事ですよね。だから、本当はこういう事もしない方が良いんだと思います」

 けれど、身近なものでお薬を作れて、それで少しでも助けになるのだとしたら。

「病気って辛いです。病気にかかった人も、それを看る人も」

 簡単なお薬で助かる人。なのに、そのお薬を手に入れるお金が無くて。

 こじらせて、最悪の場合は死んでしまう事だって、決して少なくない。

「重くなるなら、お医者さんに診てもらわなきゃ駄目です。けど、診てもらうまでに亡くなってしまう人だっています」

 自己満足だと思う。 ただ、それでも自分に出来ることをしないで後悔したくない。

「少し。少しだけの時間が必要な時に、その手段を」

「……材料についての記述も、加えなさい。薬になるものは、量を誤れば毒よ」

「! ……はい!」

「それから」

 木涙さんは溜め息をついて少しだけ躊躇う様に、恥らう様に。

「火のや水のから聞いたのだけど、それぞれ、違う名で呼んでいるの?」

「フレアさんやエイスさん、て呼んでる事ですか?」

「…………私も」

 木涙さんの白い頬が桜のように淡く染まる。

「テーレ、と」

 可愛い人だと思う。この可憐さはどうやって見習えばいいかしらと思いつつ、少しくすぐったい心持で私は木涙さんの名を呼ぶ。

「テーレさん」

 春の花束のように微笑む木涙さんは嬉しそうに両手でそっと胸元を押さえて頷いた。

 それから少し考えて、言う。

「花嫁修業、なるべく早く切り上げて。でないと、大陸が安定しない」

「え?」

「リト。帰って来るのを、待ってる」





「お前は誰の花嫁だ」

 私は――。

 じんわり滲む熱いものに揺れる視界。言っていいのか、一瞬だけ考えたけど。

「あなたの、花嫁です。……樹宝さん」

「じゃあ、来い」

「はい!」

 ぐいっと肩を抱き寄せられる。まだ、相応しいかって聞かれたらきっと足りない。けど。

「花嫁ってのは、不要品じゃないな。だから、貰ってくぞ」

「はいっ」

 誰の花嫁か聞かれたら、最初から決まっている。ぎゅっとその身体に抱きつくと、あの暖かな場所の匂いがした。まだ相応しいというには足りないけれど、離れたくない。私はこの人の花嫁。

「はぁ~い。と言う事でぇ、悪いけどぉリトさんは精霊王がお嫁さんに貰っていくよぉ。うふふ、それじゃあねぇん!」

 ぽかんとして見ていた人たちが、ようやく我に返って私たちを取り押さえようと前に踏み出すけれど、

「ひぃいいいいい!」

「ドラゴン!」

 青い草の上に映った巨影が何かを確認する為に上を見上げるより早く、その正体が地上に空から舞い降りる。

 青い、空よりも海よりも透き通るような青い鱗と一対の翼をもった竜と、紅玉よりも赤く明るく煌くような長い身体をした翼の無い大蛇にも似た龍が、押し寄せようとした人たちから私たちを守るように立ちはだかった。

 紅い龍の金色の瞳はどこか悪戯っぽく私を見ている。

「フレア、さん?」

 嗚呼どうしてだろう。恐ろしいと思っても仕方なさそうなくらいかけ離れた姿なのに、呼びかけに笑うように咆哮するこの人はいつものお姉さんと変わらないと感じる。

「エイスさん?」

 口の端だけを上げて、白く鋭い牙を見せる青い竜。その笑みが優しいと見えるのは、きっと人間では今、私だけ。

『迎えにきた』

 それぞれ異なったドラゴンの姿を取ったお二人が、そう言ったような気がする。

「リト!」

 慌てて駆け寄ってくる叔父様の姿が見える。

 青ざめて、ドラゴンのお二人に視線を向けられただけで今にも息を止めそうな様子なのに、私に手を伸ばそうとしていた。

 その恐怖の顔色の中に、後悔とそして一欠片のあるものを見つけて、私は笑った。

「叔父様! ごめんなさい! 私は、一番幸せな花嫁になりに行きます」

 手を伸ばしたまま、叔父様が固まる。けれど。

「……すまなかった」

 その声は、少しだけお父様に似ていました。

 私も叔父様も、誰でもそう。強い部分と弱い部分があって、弱い自分に負ける事もあって、それで負けた事に後悔して。

 誰だって同じ。だから、優しくもなれる。

「大丈夫ぅ~。うちの精霊王様はぁ、お嫁さんにぞっこんだからぁ」

「え?」

「ビオルさん!」

「あっは。じゃあ、皆様、良い日々をぉ!」

 ビオルさんの声がして、樹宝さんが私を抱える。一瞬だけ渦巻くような風が起こり次の瞬間、夏草の緑が舞い上がって私たちは空の上。

 青い青い、空の海。

「おい、しがみついておけよ。落ちたら洒落にならないんだからな」

 はためく花嫁衣裳の裾が私を抱えた樹宝さんに纏わりつく。

「はぁ……。樹宝さんやぁ、落とす気もないんだしぃ、折角素直になったならもうちょっと言い方ってものがあるでしょぉ?」

「ビオルさん。さっきの発言について後で少しお時間頂いても?」

「えぇ~……。私に割いてる時間あったらぁ、やることあるんじゃあないのぉん?」

 もう、ってため息つくようなビオルさんの声と、間近で久しぶりに見る愛しい人の、不機嫌そうなのに赤く染まった顔。

「首に腕、回しとけ」

 色違いの橙と唐紅花の双眸が私を見る。

「お前が、……俺の花嫁だ」

 ああ、何でだろう。嬉しいのに、また視界が滲んで歪む。声が震える。

「……はい」

「さっきから、はい、しか言ってねぇぞ」

「はい」

 呆れた様な樹宝さんの声。

「くふ。じゃあ、帰ろうかぁ。ううん。違うねぇ、今日はリトさんが嫁ぐ日なんだから、ようこそかなぁ?」

 風が動く。私たちの身体は風に包まれてあの地へ運ばれる。

 伝えたい事がたくさんある。足りないところもいっぱいある。私は樹宝さんに少しだけ強く抱きついた。

 伝えたいことの、一番最初は決まっているから。

 狭間峰の裾に広がる森が両腕を広げている。過ごした時間は生まれ育った村よりもずっと短いはずなのに、懐かしい。

「さてぇ、ちょぉっと私達はぁ、準備があるからぁ、リトさん、樹宝さん。ここから二人でぇ、歩いてきてねぇん」

「ビオルさん?」

 緩やかに風が下降して、ストン、と私を抱えた樹宝さんを地面に降ろす。怪訝な声と表情でビオルさんに樹宝さんが問いかけるけど、ビオルさんはニヤァ……と三日月のような笑みを口許に浮かべるだけだった。

「うふふ。待ってるよぉん?」

「ちょ、ビオルさん! ……歩いて来いって」

 困惑したような樹宝さんが、私を見る。炎天さんも氷冠さんもビオルさんと同じように森を越えてあの峰の向こうへ飛んでいった。

「えっと、あの、私、歩けます」

「……あ、ああ」

 ど、どうしよう。伝えたい事はたくさんあるのに。

「…………」

「…………」

 私も樹宝さんもなんとなく気まずい雰囲気で立ち尽くす。でも、樹宝さんがそっと私に手を差し伸べてくれた。

「とりあえず、行くぞ」

「は、はい」

 暖かくも冷たくも無いはずのその手が、ほんの僅かにいつもより熱いと感じたのは、私の温度が移ったからなのかもしれない。

 深い深い森が織り成す緑のアーチをくぐり、どこか甘い土の匂いがする地面を踏んで歩き出す。

 さっきまであれほど密着していたのに、今の方が何だか恥ずかしくてドキドキする。

「……。リト」

「はい」

 樹宝さんの呼ぶ声に、煩く騒いでいた鼓動が一際大きな音を立てた。

「…………、この間の……あれは、言い過ぎた」

「いいえ。その、私、も。ちゃんと答えられなかったのは、本当にその通りだったから、ですし」

「……連れてきて今更だが、良いのか」

「え?」

「人間の美醜はよくわからんが、あの人間の男、そんなに悪くない感じだっただろう」

「ジョシュの事ですか?」

 ちょっとだけムッとしたように樹宝さんは眉根を寄せてそっぽを向いた。

「同じ人間の男の方が、良いと、そう思っても」

「樹宝さん」

「何だ」

 言おうとした言葉を少し強い声で遮った私を、樹宝さんが見下ろす。

 足を止めて、私は樹宝さんを初めて睨みつけて。

 びっくりしたように色違いの双眸がたじろいで、その様子が少し可愛く見えて思わず頬が緩みかけたけど、精一杯の力で睨んだままを維持する。

「私、初めて会った時、樹宝さんの事を別に好きじゃありませんでした」

 あ。樹宝さんが硬直した。

「そ、そうかよ」

「はい。でも、好きになりました」

「っ!」

 見る見るうちに樹宝さんの顔が音を立てそうなくらい赤くなっていく。いけない。 私も同じ状態になりそう。

「だから、あの日、私は樹宝さんの所から出て行ったんです。あのままじゃ、私はあなたに伝えたい事も伝えられない。伝える資格がなかったから」

 耳につく鼓動が、励ましているのか止めているのかわからない音を刻む。つないだ手からそれが伝わりそうで、離したいと思うけど、絶対離したくないとも思う。

「今だって、その資格があるのかって聞かれたら、ちょっと自信がありません」

「……別に、資格なんか俺は求めてねぇよ」

 そう言うあなただから、私は相応しくなりたいって思います。

「私、なりたいものが出来たんです」

「なりたいもの?」

「はい。ビオルさんやテーレさんに教わって、私と同じように病に苦しんだりしている人の助けになれるようなお薬屋さん」

 体力は無いけど、文字は読める。褒められた事じゃないけど、病気の苦しさも何度も経験して知っている。苦しむ人の気持ちがわかるから、その苦しみを和らげて回復する手助けを出来る人になりたい。

「それから、少しつっけんどんな態度で、お嫁に来ましたって言ったら「帰れ」って言うような、一見とっつき難い……でも、誰より優しくて、暖かい大好きな人の」

 嗚呼、もう身体中の血が沸騰しそう。目の前の樹宝さんと私、どっちが真っ赤なんだろうって考えて何とか意識を誤魔化してみたけれど、限界です。

「お嫁さん、に。私」

「おいっ、ちょっと待て!」

「き」

 視界が覆われる。空いていた片方の手で、樹宝さんが私の頭ごと抱きしめたからだと、視界と同じく真っ白な頭が認識したのは、続いた言葉が耳に届くほどの短い時間だったはずなのに、どこか長く感じて。

「お前、いい加減にしとけよ……」

 唸る様な声音は不機嫌の塊みたいに鳴る。

「そう何度もお前に先越されたら俺の立場はどうなるんだよ」

「た、たちば?」

「言っておくが、俺は人間が好きなわけじゃねぇんだ。俺は生贄が欲しいなんて一度だって言ってねぇのに勝手に自分の仲間の命捧げてくんのも、頭おかしいんじゃねぇかって本気で思ってるし、都合が良い時ばっか祈って助け求めてくる身勝手さも、うんざりだ。おまけに、いきなり嫁に来たとか言って人の日常に割り込んでくるはた迷惑な小娘なんか、俺が情を向けるなんてありえねぇだろ」

 ぎゅっとつないだ手を樹宝さんが少し強く握る。

「けどな、ありえねぇはずなのに、お前がいなくなっただけで、気が狂いそうだ。お前が他の男の嫁になるのも面白くねぇ。覚えておけ。お前は」

 頭を、身体を樹宝さんに包まれる。今、心臓が止まっても私は驚かない。

「お前は俺のものだ。逃げられると思うなよ。人間の男が良かったって言っても、俺は他の奴にお前をくれてやる気は一切ねぇんだからな! その命が尽きるまで一緒に居るのは、俺だ」

 自棄やけになった様な勢いで樹宝さんが言う。

 これって幻聴じゃないかなって思ったけど、

「お前が好きだ」

 幻聴で片付けるなんて勿体無い事、できそうにありません。






 のちに狭間の薬師と呼ばれる人物が現れる。

 その薬師は分け隔てなく様々な人々の病や傷を癒しその術を伝えたという。

 かの人は狭間の地に住み、大陸の心である精霊に愛されていたという伝承が今でも近隣の村には伝わっている。

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