聖獣
そんな恥辱に耐えながら数日を過ごしていた。
ある日、長老たちが揃って現れた。
最も偉い人である長老筆頭、ハイラさん。身長はリーネより少し小さいくらい、と小柄だがメチャクチャ威厳がある。小学生からみた校長先生的な? そんな彼が口を開く。
「本日はソーマ様にご提案をお持ちしました」
提案とな。
「ソーマ様におかれましては勿論ご存じでしょうが、蒼炎の書、第六の章にこうあります。『英雄は聖獣の力を得て、人の身を超える。その魂は獣の鎧に移り、古代の炎を宿す器となる』と。偉人の精神にふさわしき器を用意すべきと、我々は結論いたしました」
『……は?』
「……ソーマ様は、『それはどういう意味だ』と仰っています」
リーネさん、どんどん意訳が上達してるし。
「蒼炎の書に記された通り、聖獣の体に偉人の精神を移す儀式を執り行います。いつまでも巫女殿の体に間借りを続けさせるわけにもまいりません」
リーネの体から出してもらえる? それは有り難いけど、なんか看過できない単語があったな? 聖獣?
『聖獣って?』
「ソーマ様は、『どのような獣なのだ』と仰っています」
そこまでおっしゃってません!
「聖都で最も強く立派な鱗猫を選ぶ予定です。鱗猫なら偉人様の依り代に足るのではないかと愚考します」
思考が高速で回転する。第六章の「聖獣化」シーン。書いた。確かに書いた。カイの腕の紋章が光り、聖獣と融合して竜の力を得るシーン。設定ノートに聖獣のデザインまで描いた。猫科ベースの、鱗と翼がある——
『待て。待ってくれ。あれはフィクションだ。物語だ。実際にやって成功するわけが——』
「……ソーマ様は、儀式の成功を疑問視されています」
「謙虚なお方だ。しかし蒼炎の書に記された聖典の詠唱で炉を震わせたのは事実。書に記された手順に従えば、必ずや成功するかと」
俺は反論しようとするが、気づく。確かに自分の書いた詠唱で炉が反応した。あれが偶然でないなら——いや、偶然に決まっている。決まっている、が……。
結局俺には拒否する手段がない。リーネの体に居候し続けるわけにはいかない。それはもう切実に。消極的に了承する。
『……やるだけやって失敗して、『やっぱり無理でした』で終わるだろ。それでいいか』
---
そして次の日。
神殿の石像があるホールの地下深く、奥殿と呼ばれている場所に案内された。そこに初めて見る地殻炉があった。この聖都の動力をすべてこれ一基でまかなっているそうだが、想像していたより全然小さい。そういえばこんな形に設定したの俺だった。なんだか直径10メートルくらいの平べったい円筒にクリスタルっぽい材質の制御卓が付いてるだけだ。机の反対側からは図太いケーブルが伸びている。街一つ分のエネルギーを賄うにしては単純過ぎる見た目だ。こんな所まで高校生レベルなのか。大丈夫かこの世界。
その炉の前に2メートル四方くらいの檻が運び込まれた。銀色の金属製。アルミ? 中で低い唸り声が響いている。檻の周囲を神官たちが円形に取り囲む。
リーネが檻の前に立つ。蒼真はリーネの目を通じて、初めて鱗猫を見る。
オオヤマネコほどの体躯。灰銀色の毛皮に、背筋に沿って深い藍色の鱗が一列に走っている。大きな三角耳の先にはリンクス・ティップ、って、まんまヤマネコだな。そして金色の瞳。折り畳まれた翼が肩の後ろに見え隠れする。太く長い尻尾には毛がなく全て鱗。その強靱そうな尻尾で檻の格子を苛立たしげに叩いている。
美しい、と思った。驚くほど素直にそう思った。
そして次の瞬間、設定ノートの記憶が蘇る。「聖獣リンドヴルム。オオヤマネコをベースに竜の遺伝子を組み込んだ古代の使役獣。背中の鱗は感情で発光する。小さな翼あり。尻尾は武器にもなる硬質の鱗尾」——高校2年の春、休み時間に夢中で描いたデザイン画。
『……おい』
「はい、どうかされましたか?」
『あの生き物、俺が設定ノートに描いたのと、ほぼ同じなんだが』
「はい、聖典にも詳細に記述されている聖なる生き物です。普段は灰域に若干数が生息しております。今回、別の集落の神官が灰域から比較的おとなしい個体を選んで連れてきたとの事です」
俺は沈黙する。偶然の一致がまた一つ増えた。笑えなくなってきている。
鱗猫がこちらを見る。金色の瞳が細まる。威嚇ではない。品定めするような視線。
檻が開かれた。鱗猫は警戒しているのか檻の中で低くうなっているだけだ。
白い祭服のリーネが手に聖典の写本を掲げる。
「……始めます」
『…………』
リーネの祈祷が始まった。聖典の第六の章を基にした詠唱。リーネの声は淡々としている。感情の起伏がない、平坦な声。しかし正確で、一字の乱れもない。
「遠き地より来たりし者よ。汝の魂は人の器に留まるべからず——」
自分が書いた文章を、別人が真剣に唱えている。その声に嘲笑の気配は一切ない。リーネにとってこれは冗談でも遊びでもない。蒼真が16歳でノートに殴り書いた言葉が、ここでは祈りの言葉として生きている。奇妙な感覚だった。恥ずかしさの奥に、名前のつかない何かがある。
「聖なる獣よ、器となれ。炎の魂を受け入れよ——」
リーネの声に、変化が起きる。本人も気づいていない変化。詠唱の後半、リーネの声にほんのわずかな「力み」が入る。それは感情と呼ぶにはあまりに微かだが、これまでの平坦な詠唱とは明確に異なる何か。
蒼真の精神をこの体から解放しなければならない——その「真摯さ」が、リーネ自身にも自覚できないまま、声に乗った。
地殻炉が反応して低い振動が強まった。奥殿の床を通じて足裏に伝わる。長老たちの顔色が変わる。炉がこれほど明確に反応したのは、ここにいるどの人間の記憶にもない。
『——おい。なんだこの振動。おい、これ』
リーネの詠唱が核心に入る。
「我が声は鍵、我が魂は薪。蒼き炎の名において命ずる——」
聞き覚えのあるフレーズ。自分が書いた詠唱文。それがリーネの声を通じて炉に届き、炉が応えている。俺は確信と恐怖を感じた。『成功する。これ本当に成功する——』
「——移れ」
炉が一段と高く唸りを上げた。
---
次の瞬間、俺の意識が引き裂かれた。
リーネの精神から引き剥がされ暗い空間に放り出される感覚。繋がった糸が一本ずつ断たれていくのではなく、一息に引き千切られる暴力的な力。俺は叫んだが声はどこにも届かない。リーネの意識が遠ざかる。
精神が宙に投げ出される。行き先を失う。反射的に現代の肉体に戻ろうともがくが、体がどこにあるか分からない。応答がない。扉を叩いても開かない部屋。精神がばらけそうになる。
その刹那、炉の回路が最も近い生体を捉える。檻の中の鱗猫。自分の精神が抵抗する間もなく鱗猫の体に流れ込む。
鱗猫には意識があった。当然だ。俺の意識は猫の意識と衝突する。獣の本能が異物を拒絶しようとする。俺は「違う、敵じゃない」と念じるが、そもそも鱗猫に言葉は通じない。数秒間の精神的な格闘。やがて鱗猫の意識が後退し——完全に消えるのではなく、奥の方に丸くなって眠るように沈む。諦めたのとは違う、炉に押し込まれた感じ。
そうして俺の意識は鱗猫の体に定着した。してしまった。そう感じるや否や意識が遠のいていく。
---
最初に感じたのは、匂いだった。
石の匂い。蝋燭の燃える匂い。人間の体臭が何十種類も重なった匂い。リーネの祭服の布の匂い——これだけが、ほんのわずかに馴染みがあった。
次に、音。自分の心臓の音が異様に速い。耳が、自分の意志と関係なく動いている。ぴくぴくと方向を変え、奥殿のあらゆる音を拾っている。誰かの衣擦れ。長老の一人が唾を飲み込んだ音。リーネの呼吸音。
目を開ける。視界が低い。地面が近い。色が違う——暗いのに見える。闇の中に輪郭がくっきり浮かんでいる。
伏せっている足が四本感じられる。思考が一拍止まり、再起動した。
『なんだこりゃー!』と叫ぼうとしたが、口から発せられたのは。
「ニャー!」
それだけだった。
パニックになった。立ち上がろうとして四足の足が絡まる。前足が滑り、顎を床に打つ。檻からは出られたようだが、ちゃんと歩けない。尻尾が重い、太い、バランスが悪い。尻尾は俺の背後で暴れ、祭壇の燭台を薙ぎ倒す。金属が床に当たる甲高い音に自分の耳が反応し、体が勝手に跳ねる。翼がばさりと全開する。自分でも知らなかった筋肉が動き、視界の端に膜状の翼が広がるのが見える。
「ニャアアッ!!」
奥殿が騒然となる。長老たちが後ずさる。守り手が構える。「聖獣が暴れている」「落ち着かせろ」「近づくな」。
俺は暴れたいわけではないんだ。ただ体が言うことを聞かない。尻尾が次の祭具を薙ぎ倒す。翼がばたばたと閉じようとして半端に開いたまま震える。爪が石の床をがりがり引っ掻く——爪が出し入れできることを今知った。
『落ち着け落ち着け落ち着け俺えー!』
その時、頭の中にここしばらく聞き続けていたリーネの声が響く。
「……聞こえますか」
猫の体の動きが止まる。
「ソーマ様、聞こえているのですね。あなたのお心が、まだ私に届いています」
感応術。リーネの体に間借りしていた時の精神接続の残滓が、チャネルとして残っていた。微かだが、確実に繋がっている。
『……聞こえる。聞こえてるぞリーネ、おい俺、猫になってるぞ』
「はい。儀式は成功です。聖典の記述通り、聖獣の力を得ました」
『知ってたけど! 成功言うな!! これのどこが成功だ! 四本足! 尻尾! 翼! なんで翼出てんの!! 全然思うように動かないぞ!』
翼がまたばさっと開く。俺の激昂に反応して勝手に動いている。それがさらに苛立ちを生み、尻尾が暴れ、近くの香炉を吹き飛ばす。
「翼は、感情で動くようです。落ち着いてください」
『落ち着けるわけないだろ!!』と叫ぶが口から出るのは「ニギャー!」。
長老たちが遠巻きに見守っている。「偉人様が聖獣の体に慣れておられない」「無理もない」「しかし聖典通りだ」。
---
数分後、俺はようやく体を制御するコツを掴みはじめた。四本の足で立つ。尻尾はまだ不規則に揺れているが、翼はどうにか畳めた。
奥殿の中央で、灰銀色の鱗猫が座っている。金色の瞳でリーネを見上げている。その目に、明らかに「知性」がある。獣の目ではない。
リーネは跪き、鱗猫の目線に合わせる。
「改めて確認します。あなたは先ほどまで私の中にいた方——キリューソーマ様、で間違いありませんか」
『……ああ。間違いない』
「どうやら声は私にしか聞こえないようです。他の者に伝える際は、私が仲介します」
『……つまり、お前以外の人間には俺はただの猫にしか見えないってことか』
「猫ではありません。聖獣、です」
『どっちでもいいよ……』
俺は自分の前足を裏返してみる。肉球がある。爪を出したり引っ込めたりしてみる。出る。引っ込む。猫だ。
尻尾を見ようと振り返る。長い。太い。鱗に覆われている。先端が扁平に広がっていて重い。振り回すと風圧がある。
『………こんな設定を書いた高校生の自分を殴りたい』
「何か仰いましたか?」
『いや。……なんでもない』
---
長老たちが改めて正式な場を設ける。長老ハイラは偉人が聖獣の体を得たことを記念し、聖なる名を授けたいと申し出てきた。
「聖獣に宿りし偉人よ。我らは貴方に聖なる称号をお贈りしたい。『蒼炎の御使い・天地を翔ける聖鱗の導き手』——」
俺は即座にリーネに伝える。
『断って』
「ソーマ様は辞退されるそうです」
「では、もう少し簡潔に。『蒼炎の聖翼』は——」
『だめ』
「不要だそうです」
「……では、いかなる名でお呼びすればよろしいのでしょう」
皆は黙り込むが、しかし俺は考えるまでもない。
『ソーマ、でいい』
「偉人様はソーマ、と名乗られるそうです」
ハイラは僅かに意外そうな表情を浮かべる。
「ソーマ様……。短いが、力のある響きですね。承知いたしました。以後、ソーマ様とお呼びいたします」
耳がぺたんと後ろに倒れる。「様」が耐えがたく恥ずかしい。しかしこれ以上の議論は体力が持たないぞ。
リーネが立ち上がり、周囲の長老たちに向き直る。
「偉人様は『ソーマ』とお呼びするように、とのことです」
淡々とした声。通訳として完璧に機能している。しかし俺は気づかなかった。リーネが「ソーマ」と口にした時、ほんの一瞬、その声に微かな重みが乗ったことに。
---
その夜。神殿の小部屋に用意された寝床(豪奢な座布団が積まれたもの)の上で、蒼真は丸くなって横たわっている。猫の体は丸くなると落ち着く、ということを発見した。非常にもの凄く大変に不本意だが抗えない。
リーネが傍らに座っている。俺の様子を見ているというより監視に近いかも。儀式の後遺症がないか確認する職務なんだろうか。
『……なあ』
「はい」
『俺、元に戻れるのかな。人間の体に』
「……分かりません。今回の儀式は蒼炎の書の手順に基づいたものですが、逆の手順——聖獣から人の身に戻る方法は、書には記されていません」
『書いてないのか』
「はい。少なくとも、現存する章には」
沈黙。
当然だ。だってカイは最後まで聖獣の力を持ったまま戦い続けた。元に戻すシーンなんて書かなかった。そこまで考えが至らなかった。高校生の自分に、設定の回収という概念はなかった。
『……最終章にも、ないのか』
「最終章は失われています。しかし——最終章にこそ、手がかりがあるのかもしれません」
俺は黙る。最終章の内容は知っている。「みんなの心をひとつに叫んだら世界が救われた」。そこに「元の体に戻る方法」は書いていない。断言できる。自分が書いたんだから。だが——それをここで言ったところで何になる。
「ソーマ様」
『様はやめてくれ……』
「……ソーマ。巡礼に出ましょう。あなたの体を元に戻す手がかりを探します。最終章の手がかりも、各地の古い記録の中にあるかもしれない。私が、あなたの言葉を人々に伝えます。あなたの声は私にしか届かないのだから——それは、私の役目です」
俺は金色の瞳でリーネを見上げた。感情の薄い、平坦な声。だがリーネにとってこれは宣言だった。職務でもあり、彼女なりの——まだ自分でも名前をつけられない——何かでもあった。
『……勝手にしろ』
尻尾の先端が、小さく一度だけ揺れた。




