終わった争い
西暦2416年。ニルスの元にフィンランド国防省から面会があった。
「PTSD治療プログラムへの技術提供、ですか。」
ニルスは、研究所の応接室で軍服を着た将校二人と対面している。一人がにこやかに切り出した。
「はい。現在、戦場から戻った人員や退役軍人がPTSDに罹患するケースが深刻な問題になっています。大半は数ヶ月で軽快するのですが、20から30%は日常生活に復帰できないほどの深刻な症状が続きます。」
「そこまでですか」
「はい。軍にとっても国家にとっても重大な損失です。薬物で一時的に軽減はされるのですが、中止すると再発するケースがほとんどでして。そこで博士のお力をお借りできれば、と参った次第です」
ニルスにとっては、共感できる話だった。
「わかりました。研究所の許可が降り次第、ご協力いたしましょう。」
将校は手を差し出して笑顔で握手を求める。
「ありがとうございます博士! 是非とも宜しくお願いいたします」
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PTSD対策へのニルスの方法は効果的だった。ほとんどの軍人が回復に向かう。大成功と言って良かった。
しかしその後、ある程度ニルスの研究プロトコルが軍に渡ると、その技術は「デュアルユース」に指定された。軍民両用の技術のことで、研究の一部は機密とされ発表に制限がかかった。ニルスは反発したが、「治療の実用化のため実戦でのテストが必要だから」と説得され、疑念はあったものの受け入れざるを得なかった。
しかしニルスの懸念は正しかった。彼に知らされないまま軍は別の研究部署を設立。ニルスの技術をベースに独自の応用研究を開始する。「敵性人口の無力化」を目的とした兵器化プログラムが走り始める。
この兵器化は、ニルスのAAVベクター設計を「ペイロード」として呼吸器ウイルスに搭載する事だった。要はB兵器である。散布しても世界的な流行にはならないよう、限定的な感染力に設計されていた。
その後、AAVを担当していた同僚が引き抜かれ沈黙した。自分の論文のうち特定の部分だけが不自然に機密指定された。などなどが重なり、ニルスは軍が兵器に転用している事に確信を持つ。
ニルスは軍と安全保障委員会に対して抗議した。精密な検査なしにAAVベクターを適用する事は生殖細胞への影響があり得ること、世代を超える不可逆的改変の危険性を訴えた。しかし彼の発言は機密保持義務によって封じられる。外部に告発しようにも、デュアルユース指定により研究の詳細を公開すること自体が違法になっていた。遂にニルスは逮捕・収監されてしまう。
そして彼が恐れていた事が起こった。限定的な実地試験が行われ、ある紛争地域の敵対勢力に対して「風邪の流行」に見せかけたウィルス散布が実行される。
しかしウイルスの設計上起きないはずの変異が起こった。感染力が設計者の想定を超える。紛争地域に留まらず、人の移動に乗って周辺国へ、さらに世界へと拡散する。「ただの風邪」の世界的流行として認識され、数ヶ月で世界人口の大部分が感染する。致死性がほぼゼロに設計されているため、パンデミックとしての警戒度は低かった。第三国によってワクチンも開発はされたが、ウィルスを非活性化しても注入されてしまった遺伝子を取り除く事はできない。
ウィルスの開発は成功であり失敗でもあった。感情は確かに抑制されたが、変化が顕在化したのは感染から数ヶ月〜数年後だった。兵器としては効きが遅すぎた。
感情抑制が効果を現す頃にはウイルスの流行はとうに収束していて因果関係の特定が極めて困難になっていた。「最近、世界が穏やかになった」という漠然とした印象はあっても、それを特定のウイルスに結びつけられる者は軍の開発者以外にはほとんどいない。無論彼らが情報を出す事は決してなかった。
ニルスの懸念は最悪の形で的中する。ウイルスは感染世代に効果を現したが、個人別にカスタマイズしていないAAVは生殖細胞にも食い込んでいた。遺伝してしまった因子は子世代の人類からも激しい感情を奪う。
感情が無くなった事は誰もが認識していたが、それに対する危機感もまた失われていた。世の中から紛争が消えた。犯罪も消えた。
世界は平和になった。なってしまった。取り返しの付かない方法で。




