終わらぬ争い
西暦2400年代。地殻炉によりエネルギー問題は解決したものの、地球上の争いは収まらなかった。
それは資源の問題だったり、宗教やイデオロギーの対立だったりして、未来に渡って解消の見込めないものばかりだ。特に宗教や思想については科学技術がどれだけ発展しようともどうにもならない。人類は終わらない戦争に消耗し、地球の生態系は痩せ細っていった。
西暦2410年、フィンランドのとある医療系研究所。哺乳類の感情抑制を扱っている研究者がいた。ニルス・カンクネン、35才。
「よし、改良型AAVの遺伝子注入は良好に動作してるな。抑制物質の生産が始まってる」
彼は仮想構築された人体の細胞内にVRで入り込み、改変した遺伝子群が感情伝達の神経系を抑制する薬品を産生する様を見守った。
「これで、あとは個人個人の遺伝子差を埋めるための手順を確立すれば、ほぼ実用化だな」
彼は、家庭内暴力などの加害者に対する「攻撃衝動緩和療法」を研究していた。人類の闘争の大本である、感情による行動を抑止する研究をしている。薬品による抑止については昔から色々なものが実用化されているが、それらはあくまで精神疾患の治療に用いるものであって、闘争の抑止のためのものではない。そもそも投薬を中断したら元に戻ってしまう。
ニルスは遺伝子改変による感情抑制を目指していた。遺伝的に闘争を好む家系や民族は残念ながら存在する。これに対する解法を模索する中で遺伝子操作にたどり着いた。
ニルスの感情抑制メカニズムはこうだ。まず成人の神経細胞に改良型アデノ随伴ウイルスベクター(AAVベクター改)で改変遺伝子を導入する。遺伝子改変された細胞が神経回路の抑制性タンパク質を内製し始め感情発火を抑制する。既存の神経回路は残るが、化学的に鈍化される事になる。
もちろん施術の対象は自発的に治療を希望する個人のみ。体細胞遺伝子治療による限定的な介入だが、臨床試験の結果は目覚ましい。暴力衝動が劇的に減少し、被験者のQOLはほぼ例外なく向上した。
この成果が学術論文として発表されると、メディアは「暴力を根絶する技術」として大きく報じた。しかしニルスは慎重に「個人の治療であり、社会全体に適用するものではない」と繰り返すが、注目は集まり続けた。
実はニルスは、もう一つの感情抑制方法も考案していた。生殖細胞のDNAを書き換え、次世代が「感情の振幅が小さい」神経系を持って生まれるように仕向けるというもの。既に類人猿での実験には成功していて、その効果は施術された猿だけでなくその子にも効果が持続していた。改変された遺伝子は、成長に伴って感情抑制物質の生産が本格化する。その効果は直接施術した場合と同様の効力を生んでいた。
しかし。感情を失って何をされても怒らない、何にも興味を示さない子猿を見てニルスは激しく後悔した。これは公にしてはいけない。絶対に許されない技術だ。ニルスは全ての研究資料を破棄し、成果を葬った。それで終わるはずだった。




