第4話 「あおとくん」を捜せ
「碧くん、改名した?」
「してない」
「隠し名は?」
「ない」
「実は戸籍が二つあるとか」
「北条。昨日から恋愛ミステリーを三冊読みすぎです」
昼休みの図書室で、澪が赤ペンの尻を机へ当てた。
私の端末に表示された《宛先候補――あおと》。
姓も漢字もない四文字をめぐり、返却班は朝から迷走している。
まず本人へ聞くのが一番早いと思い、碧を尋問してみた。結果、彼は今日も伊藤碧であることしか分からなかった。
「昔、家族からだけ『あおと』って呼ばれてた可能性は?」
「ない」
「幼名」
「武将じゃない」
「前世」
「それは調べ方が分からない」
「否定しないんだ」
「証明できないから」
まじめに答えるせいで、冗談の方が疲れてくる。
向かいで澪がため息をついた。
「一文字違いなんだから、六歳の陽葵が書き間違えたのでは?」
「音声も『あおと』だった」
「言い間違え」
「あんなにはっきり?」
「当時から滑舌だけはよかったんですね」
「ほめられてる気がしない」
碧はノートへ、ひらがなで二つの名前を書いた。
あおい。
あおと。
最後の一文字が違う。
「俺じゃないと思う」
短い言葉だった。
なのに胸の奥へ、細い針みたいに刺さった。
「どうして、そんなに簡単に言うの」
「違う名前だから」
「六歳の私が間違えたかもしれないでしょ」
「そうだとしても、北条が覚えてないなら、俺が決めることじゃない」
碧は私から視線を外し、書いた二つの名前を消しゴムで消した。
正しい。昨日、宮下姉妹から学んだばかりだ。昔の手紙があっても、今の気持ちを誰かが代わりに決めてはいけない。
でも、正しい言葉が痛くないとは限らない。
「碧くんは、自分じゃない方がいいの?」
「そうは言ってない」
「じゃあ、どっち」
「分からない」
「またそれ」
「分からないのに、北条がほしい方を言うのは違う」
返事がまっすぐすぎて、怒る場所を失う。
澪が赤ペンでノートを二度叩いた。
「恋愛尋問は終了。次は資料です。本人の部屋へ不法侵入する案は却下済み」
「提案してない!」
「顔に書いてありました」
「どのへんに?」
「眉間に《家系図》、口元に《卒業アルバム》」
「そこまで具体的に出ないよ!」
碧が私の顔を見た。
「出てない」
「確認しなくていい!」
図書室の奥から、抑えた笑い声がした。
「朝から面白い生放送やってるね」
佐伯こはるが、地域資料のファイルを抱えて立っていた。肩までの髪を片側で結び、制服の胸には放送部の小さなピン。私の友人で、噂を見つける速さは校内放送より速い。
「生放送じゃない。非公開」
「じゃあ録音にしとく?」
「しないで」
「もうした」
「消して!」
「本人の四択を尊重して削除します」
こはるがスマホを操作する。どうして部外者まで返却班の規約を知っているのか。
「昨日、陽葵が十二分しゃべったから」
「心を読まないで」
「顔に《昨日しゃべったっけ》って出てた」
「私の顔、情報表示板なの?」
澪がこはるからファイルを受け取った。
「十年前の地域新聞ですね」
「星見ドームの記事、あるだけ持ってきた。放送部の地域企画でデータ化したから」
私たちは古い紙面を広げた。
星屑郵便の募集広告。投影機の更新。子ども向け観望会。十年前の試験事故については、小さな記事が一つだけ。
《体験企画で設備不具合。児童一名が軽傷》
白黒写真には、ドーム前に立つ子どもたちが写っていた。
端にいる女の子の黄色いヘアピンを見て、喉が詰まる。
私だ。
隣には、同じくらいの男の子。そして少し離れて、背の高い少年がいる。
写真の下には《主任技師・伊藤湊さんと次男》とある。長男について書かれた部分だけ、水染みで読めない。
「長男」
私は碧を見る。
碧の指が、左手首の袖を直した。
「お兄さん、いるの?」
数秒の沈黙。
「いた」
「いた、って」
「今は一緒に住んでない」
過去形の一言が、机の上へ重く落ちた。
私は碧の家に兄がいると知らなかった。昔のことだけではない。町へ戻ってから同じクラスで過ごした半年間、家族の話になっても、碧は父親とドームのことしか口にしなかった。
私が知らないのは当然だ、とも思う。好きだからといって、相手の過去が自動的に開示されるわけではない。
それでも、私の手紙に知らない名前が出た瞬間から、碧と澪だけが同じ地図を持ち、私だけが白紙の上に立たされている気がしていた。
「名前は?」
碧は答えなかった。
その沈黙を埋めるように、図書室の時計が一度鳴った。
聞きたい。
でも、今ここで彼の鞄を開けたり、家族の連絡先を盗み見たりしたら、私の手紙を勝手に上映する人と同じになる。
「公開されてる資料だけで調べる」
私は自分へ言い聞かせるように口にした。
「碧くんの私物は見ない。家族にも勝手に連絡しない。でも、嘘はつかないで」
「嘘はついてない」
「言ってないことが多すぎる」
「……うん」
碧は否定しなかった。
澪は新聞を見つめたまま、一言も口を挟まなかった。
こはるが写真をスマホで拡大する。
「この背の高い子、次男の隣にいるなら長男じゃない?」
水染みの向こうにいる少年は、十四歳くらい。顔の半分は印刷の傷で欠けている。それでも伏せた目元が、今の碧とよく似ていた。
少年の胸には、職員用らしい青いカードが下がっている。手元には、星形の何か。
「私のカード?」
「断定はできません」
澪がすぐに止める。
「色も傷も確認できない。似ているから同じもの、と決めるのはORBITと同じです」
「分かってる」
答えながら、分かっていない自分もいた。
証拠が一つ増えるたび、早く答えへ飛びつきたくなる。手紙の相手が碧なら安心できる。違うなら、早く違うと知って傷ついた方がいい。待っている時間の方が怖いから、何でもいいから結論にしたい。
それが、昨日まで映像へ怒っていた私自身の癖だと気づいた。
◇
放課後、ドームへ戻ると、真壁さんが客席中央に立っていた。
スーツの上着を脱ぎ、スクリーンへ投影した資料を指で送っている。
資料を切り替える手が、古い事故記録の音声波形で一瞬だけ止まった。そこだけ、企画責任者の笑顔が消えた。
《最終上映まで、あと十七日》
「順調ですね。最初の一通が確定した」
宮下姉妹の選択で、天井に一つ灯った星を見上げる。
「順調じゃないです。あと二十九通」
「だからこそ、企画には二つの出口を用意している」
画面が切り替わる。
百近い光点が、一つの大きな星座へ結ばれた。
点はどれも同じ大きさだった。
でも、その一つ一つに、宮下姉妹の十年と同じ重さがある。謝りたい人。謝られたくない人。まだ聞きたくない人。私たちが一晩で答えを出せないことを、二十日という締切だけが同じ速度で追い立てる。
真壁さんの資料では、それらが《残件》という一語へまとめられていた。
便利な言葉だ。人の迷いを数えやすくする。
「三十通が決まれば、旧原本は公共アーカイブへ移る。届かなければ、個人を特定できない形にした合成上映だけが残る」
「特定できなくても、本人には分かります」
私が言うと、真壁さんは否定しなかった。
「だから、君たちが間に合わせればいい」
焦らせる言い方だ。
こちらが走れば走るほど、転ぶところまで企画に使われる気がする。
「その前に質問」
私は彼の名札を指した。
今日も《M. MAKABE》とだけ表示され、下の名前はない。
「真壁さんの下の名前、教えてください」
「今は企画責任者で十分でしょう」
「十分かどうかは、聞いた側が決めます」
「いい返しだ。でも、答えには対価がいる」
「私の手紙を上映させる以外で」
「では、三十通を達成したら」
「遅いです」
澪が一歩出た。
「青――」
声が途中で切れる。
澪の顔から、いつもの笑みが消えていた。
碧も顔を上げる。
ほんの一瞬、三人の間に、私だけが知らない名前が通った。
真壁さんの下の名。碧の兄。私の手紙の宛先。
まだ一本につなげる証拠はない。それなのに、澪の途切れた声だけで、ばらばらだった線が触れたように感じた。
「澪?」
「……なんでもありません」
「今、青って」
「青信号でも急いで渡るな、と言おうとしました」
「ドームの中に信号ないよ」
「比喩です」
「澪、比喩が下手」
「あなたにだけは言われたくありません」
赤ペンを持つ指が、白くなるほど強く握られている。
真壁さんは、澪を見ても笑わなかった。
警告音が響いたのは、その時だった。
《未送信の新規カードを検出》
床から、見覚えのない白い星が上がってくる。
「旧原本じゃない」
碧が制御卓へ走る。
「昨日まで、こんな表示なかった」
澪の手から赤ペンが落ちた。
硬い床を跳ね、二度転がる。
昨日、宮下姉妹の前では一度も手順を間違えなかった澪が、自分の名前を表示されただけで動けなくなっている。
助けたい、と思った。
同時に、そのカードを見たいとも思った。
碧への告白なら、見たくない。けれど見ないままなら、私より澪の言葉の方が強いのではないかと、ずっと想像してしまう。
心配と嫉妬が同じ場所から出てきて、自分でもどちらを先に扱えばいいのか分からなかった。
画面に送信者が表示される。
《高瀬澪》
その下に、宛先。
《伊藤碧》
「澪」
私が名前を呼ぶと、彼女は落ちた赤ペンを拾わなかった。
「中学のボランティアをしていた時、音声テストで録音しました。削除したはずです」
「何を録音したの」
「見れば分かります」
真壁さんが制御卓を確認する。
「旧原本は九十九通。これは現在の一通だから公共移管の三十には入らない。ただし、最終上映の候補にはなる」
九十九通に、一通。
百通目。
澪が隠したかった、今の言葉。
碧が白いカードと澪を見比べた。
「止める?」
澪は返事の代わりに、赤い鍵を制御卓へ置いた。
「上映して」
「無理に見せなくていい」
「無理じゃありません」
澪はようやく私を見た。
余裕はなかった。声も、わずかに震えている。
それでも、私に勝ち誇るためではなく、自分が隠れないために鍵を置いたのだと分かった。
「隠して勝つくらいなら、負けた方がましです」
白い星が、ドームの中央で脈打った。




