表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
5/6

上等だ

 水曜の夜、角田は帰宅してすぐ、ノートパソコンを開いた。

 この日、彼が取り掛かったのは、作りかけの自動売買のプログラムではなかった。


 ——RR(リスク・リワード)が一対二。勝率いくつ?


 月曜の夜、毛利の問いに角田は答えられなかった。半年間、自分の勝率を一度も数えていなかったのだ。

 角田は取引履歴をダウンロードし、表計算ソフトで開いた。

 千行に近い表が現れた。半年と少しで、百六十一回。

 ほとんどの取引はドル円の三万通貨である。先週水曜の負けだけは十万通貨で、枚数が違うので色つきにして外し、個別に見ることにした。


 計算はすぐに済んだ。勝率は、四十四パーセントだった。

 角田はその数字を、しばらく見ていた。


 思っていたより、かなり高い。

 この半年、口座の総資産はほとんど動いていないことからみて、三分の一くらいだろうと踏んでいた。RRが一対二で勝率が三分の一なら、収支はちょうどゼロになるからだ。

 角田は、勝てない原因はシグナルの読みが甘いからだと考えていた。判断に、その時々のブレがあるのだ、と。半年前から自動売買のプログラムを書いているのも、突き詰めればそのためだった。プログラムによる判定ならば判断のブレは生じない。

 四十四パーセントは、その説明を壊す数字だった。

 これで一対二なら、口座は増えていなければならない。だが増えていない。

 角田は勝った回だけを抜き出してみた。取れた値幅の順に並べ替えた。切った理由を思い出せた取引は、隣の列に書き込んだ。

 そうして出てきたものをみながら、角田は理解していった。

 そういうことか、と。


    *


 金曜の夜のこと。角田は洗濯機を回しに外に出た。そして外廊下の東端で、毛利がシャツを取り込んでいるのを角田は発見した。着ているものと同じ、白い無地のTシャツである。手すりには、まだ開けていない缶コーヒーが一本置いてあった。


「よう、カクダくん」

 角田にはもう、本当はカクタだと訂正する気もない。

「毛利さん。少し、見てもらいたいものがあるんです」

 角田はいったん部屋に戻って、ノートパソコンを持ってきた。外廊下の手すりの上で開くのは、格好がつかなかったが、ほかに場所がなかった。洗濯機は回っている。


「数えてみたんです。百六十一回。勝率、四十四パー」

 毛利はシャツを抱えたまま、画面を覗き込み、「ふうん」と言った。

「なるほど。で、半年の損益は三千円、か」

「三千円です」

 毛利は、少し笑った。

「上等だ」


 角田は毛利のほうを見た。

「上等、ですか」

「半年やって減ってないなら上等だろ。相場を始めて半年。半分になっててもふしぎはない」毛利は畳んだシャツを手すりに置いた。「で、見せたいものって、それだけじゃないだろ。ほかに何か出たんじゃないか」

 角田はうなずき、画面をスクロールした。

「利確の平均が、四十銭じゃなく二十六銭でした」

「うん」

「指値は四十銭に置いていますが、届いたのは十八回だけです。あとは自分で切っていました。一対二のつもりでしたが、一対一・三だったんです。半年間の平均で」


 毛利は手すりに肘をついて、通りのほうを向いた。福美荘の外廊下からは、駐車場の向こうに国道が見える。木曜の夜で、車の音が途切れなかった。


「切った理由も、書き出しました」角田は言った。「思い出せたものだけですから、二十回ぶんくらいですが」

「どれどれ。三十銭まで来て、そこから戻り始めたから。授業の五分前だったから。眠かったから。指標の発表が近かったから。前の日に負けていたから。前の日に勝っていたから」

「一回ずつ、いちおう理由らしいものはあると思うんです」角田は言った。「でも、並べてるうちに気づいたんですが、理由の中身はほとんど関係がありませんでした」角田は画面を見たまま言った。「俺、含み損を抱えているときに、眠いから切ったことってないんです。半年で一度も。途中で切ったのは、含み益が出ているときだけです」

 毛利は何も言わなかった。

「理由は、切りたくなってから探したんだと思います」


 毛利は缶コーヒーを取り上げて、まだ開けずに、手の中で回した。

「水曜のは入れたか」

 角田は口を閉じた。

「……外しました。枚数が違うので」

「戻しな」

 角田は戻した。半年で積み上げた三千円の上に、滑りを入れて五万一千円のマイナスが載る。合計は、マイナス四万八千円になった。


 毛利はその数字を見た。

「それでも、五パーセントまでは減ってない」毛利は言った。「上等だって言ったろ」

 角田は黙っていた。

「それが本当の君だってことだな」毛利は続けた。「本に書いてあるほうじゃなくて、そっち」

 毛利の言う通りだった。一対二というのは、本の中にしかいない角田である。本当は一対一・三の男。半年間、一度も見ていなかったほうが、本当の角田だった。


「相場の本は、どれも損切りの重要性を強調していました」角田は言った。「損切りができない人間がどうなるか。だから俺は、そこだけは見張ってたんです」

「うん」

「損切りは、守れています。九十回、きちんと切りました。はじめに置いた場所を、動かさずに。あの水曜の夜でさえ、線を上にずらしたい誘惑には耐えました」

「そこは褒めていいと思うよ」

「守れていなかったのは、利確のほうだったんですね」

 見張っていない側で、流出させていたのだ。

 利確するということは、どんなに小さくとも勝ちを確定させる行為だ。一回一回は妥当に見える。だが設計したリスクを固定したうえでリワードを小さくすれば、回数を重ねるうちに、その影響は統計的に可視化されていく。


 角田はそのことを深く考えていなかった。負けた金額より、そちらのほうが堪えていた。

「利を伸ばせないのは普通のことだ。含み益が減るのが怖くない人間はいない」毛利は言った。

「はい」

「損してるときの一万円と、勝ってるときの一万円は、同じ一万円に見えないんだよ。人間はそういうふうにできてる」

「毛利さんも、そうですか」


 毛利は少し間を置いた。

「まあね。だが俺は君とは逆だ」

「逆」

「切るのは早い。利確は遅い」

 角田は、それは上手いということではないのか、と思った。損は小さく、利は大きく。本に書いてあることそのものである。

 顔に出ていたのだろう。毛利は角田を見ずに言った。

「上手いってわけじゃないよ。遅いだけ」

「同じじゃないんですか」

「勝ってる間は同じに見えるだけだ」毛利は缶コーヒーを開けた。「上手いのと利確が遅いのは、勝ってる間は見分けがつかない。区別がつくのは、遅れたせいで負けたときだけだ。損切りが遅いせいでたまには勝つこともある。構造はそれと同じだよ」


 角田はうなずいた。うなずいたが、そのときは、それを一般論として聞いていた。

 二年以上あと、角田はこの夜の会話を思い出す。彼が思い出すのは、毛利がこのとき自分の話をしていたということと、それを角田に向かって、はっきり言葉にしていたということだった。毛利は隠していなかった。角田が受け取れなかっただけだった。


「で、どうするんだ」毛利が聞いた。

「四十銭まで、引っ張るようにします」

「なんで」

「決めたことを、守っていなかったので」

「カクダくん、それは理由になっているようで、なっていない」毛利は首を振った。

 角田は口を閉じた。それから、考えて言った。


「……実は一つ、わからないことがあるんです」

「言ってみ」

「四十銭まで引っ張ったら、たぶん勝率は下がると思います」角田は言った。「今の四十四パーセントは、途中で切っているから出ている数字です。放っておけば戻ってきて負けになったはずのポジションが、勝ちに入っている。四十銭まで待つ設定なら、勝率はもっと低くなるはずです。だから、どっちが得なのかは、この表からはわかりません」


 毛利は、そこで初めて角田のほうを向いた。

「そのとおり」

 そして、うなずいた。

「このデータからだけではわからないことを、わからないって言う。相場ではとても大切なことだ」

 褒められたのは、数えたことでも、癖を見つけたことでもなかった。わからないことを、わからないと言ったことだった。

「じゃあ、分かるように測りなよ」毛利は言った。「君は、それができる人だろ」

 角田はうなずいた。実のところ、言われる前から、その手はもう頭の中にあった。


「過去のデータで、両方の設定を回してみます」

「そう。それでいいんだ」毛利は缶を傾けた。「ただな」

「はい」

「過去は、何とでも言うことを聞く。それだけ気をつけな」

 角田はそれを、先人が若者に言う一般論として聞いた。過去を都合よく解釈するなという意味だろう。洗濯機が止まる音がして、角田は蓋を開けに行った。


 洗濯物をカゴに移して戻ってくると、毛利はまだ手すりのところにいた。

「なあ、カクダくん」

「はい」

「君さ、多分、女の子とうまく行きそうになると、次のステップに早く進もうとして自滅するタイプじゃない?」

「え」角田はカゴを持ち直した。心当たりが、ないでもなかった。「……そうですかね」

「そうだろ」

「どうして分かるんですか」

「いや」毛利は缶を傾けた。「含み損より含み益に耐えられないタイプだから」

「……じゃあ、毛利さんはどうなんですか」

「カクダくん、俺の借金を考えてごらんよ」と毛利は言った。「何千万も確定損失があるんだぜ。その上、やってることは十年間の綱渡りときたもんだ。女の子と仲良くやれる身分じゃないよ」

 それを言われると、それ以上は聞けなかった。

「でもまあ相手が一人もいなかったわけじゃない。別れるのは早かったけど」

「早い」

「理由がなくなった日にな。次の日にはもう終わってる」

「それは、その、損切りとかと同じなんですか」

「さすがに完全に同じだと思ってはないけど、通じるものはあるかもな」毛利は笑った。「そのかわり、うまく行ってるあいだは俺は何も言わない。何年でも言わない」

「言わないと、どうなるんですか」

「向こうが先に決めるさ」

 角田は、なんと言っていいかわからなかった。

「終わらせたくないもんは、確定させないほうがいいんだ」毛利は当たり前のことのように言った。


 角田は、それが相場の話として正しいかどうかを考えた。正しくなかった。含み益は、確定させなければ益ではない。

 だが角田は、そうは言わなかった。

 毛利は上を向いてコーヒーの残りを飲み切ると、空き缶をリサイクル箱に投げた。缶は見事に入り、カコンとうつろな音を立てた。そして毛利は「いい分析だった。またな」といって自室に戻っていった。

 角田も一度、自室に戻った。座卓の前に座って、書きかけのプログラムのファイルを開いた。データを読むところで止まっているはずである。土曜の朝までに、そこは直せる。

 四十分ほど経って、洗濯物のことを思い出した。

 角田は濡れた洗濯物を抱えて、竿のほうへ歩いた。五月の終わりの、風のない夜だった。

 金曜の夜が更けていった。明日から二日、相場は閉まっている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ