生き残り方
「教えてください」と角田は言った。
「何を」
「相場です」自分が思ったより緊張した声が出た。「俺も半年やってます。三万通貨で、朝と夜に一回ずつ。それで口座は、ほとんど動いてません」角田は箸袋を見た。三億四千万と書いてある。「同じことをやっていても、毛利さんは毎年四割ずつ増やしていて、俺は半年でほとんど増えていない」
毛利は箸を止めた。
「君、いま、朝と夜に一回ずつって言ったな」
「はい」
「俺は入らない日のほうが多い」毛利は麺を持ち上げた。「スイングトレード寄りのスタイルだ。同じってわけじゃないよ」
「……わかってます。それでもいいんです。毛利さんの相場を教えてください」
毛利はしばらく黙って、麺をすすっていた。
「まあ、洗濯物の礼がまだだったからな」それから言った。「口座にいくら入れてる」
「百万です」
「ポジションを持つ期間はどれくらい」
「その日のうちに切ります。持ち越したことはないです」
「デイトレードだな。さっき朝と夜って言ってたな」
「平日は授業があるので、それしか見られません」
「切るとこは決めてあるか」
「損切りは二十銭。利確は四十銭に置いてます」
「ふん。悪くない」毛利は言った。「RRが一対二。勝率いくつ?」
角田は、口を開いて、閉じた。
答えにくかったからではない。答えを持っていないことに、いま初めて気づいたからだった。
損切りと利確の比率は、本に書いてあるとおりに決めた。
一対二なら勝率三分の一で収支はゼロになる。それより勝てば増える。理屈は完全に理解している。だが角田は、自分の実際の勝率を一度も数えていなかった。
「……数えてません」
「じゃあ、その一対二が自分に合ってるかどうか、まだわからないわけだ」
「はい」
「まあ、設定は悪くないよ。確かめてないだけだ」
毛利は海苔をつまんだ。
角田は箸を取り直した。この人が最初に自分を否定しなかったことに、少し驚いていた。
「回数を増やせとは言わない。朝と夜しか見られないなら、それが君の相場だ」毛利は言った。「で、この前のドル円は?」
角田は箸を止めた。
「この前のドル円、というのは」
「枚数。いつも三万なんだろ。この前のは、いくつだった」
角田は、今度は答えたくなかった。だが教えを乞うものとして、おそるおそる口に出した。
「……十万でした」
「損切りは」
「五十銭に広げました」
「だろうな」
毛利は自分の箸袋を細長く折りながら、前を向いたまま言った。
「普段の三倍張るときってのは、たいてい一番自信があるときなんだよ」
角田は黙っていた。
「そして一番自信があるときが、一番危ない。自信ってのはな、根拠が増えたときじゃなくて、反対側の根拠を見なくなったときに出るからだ」
角田は黙っていた。
「気づいてるかい、カクダくん。君は枚数も幅も、両方いじってる」毛利は言った。「三倍持って、幅を二倍半にした。掛け算で八倍近くだ。自信があるときってのは、そうやって二か所同時に緩むんだよ。片方いじってるつもりで、両方いじってる」
「……毛利さんも、やりましたか」
「そうしなかった奴を、俺は知らないな」
毛利は袋を置いた。
「言っとくけど、俺と同じにしろって話じゃないぞ。俺は一日か二日に一回、入るか入らないかだ。いっぺん持てば、二日三日は平気で持つ。持つ時間が長いぶん、一回を大きくできる。君には、君の大きさがある。それを、確信した日にも変えるな」
「三万のまま、ですか」
「三万のまま」
角田は箸を置いた。言うべきではないかもしれないと思いながら、言った。
「毛利さんは、四割じゃないですか」
毛利は麺をすすった。
「そうだな」
「三万通貨で朝と夜に一回ずつやって、年に四割に、なりますか」
「なるよ」
角田は毛利を見た。
「なりますか」
「計算してみ。一回勝って一万二千、負けて六千だろ。年に三百回入るとして、四割勝てたら」
角田は箸袋の余白を探した。一万二千の四割から、六千の六割を引く。一回あたり千二百円。それを三百回。
三十六万である。
「……三十六万」
「口座が百万なら三割六分だ。ほぼ四割だろ」毛利は麺をすすった。「届くよ、数字は」
「じゃあ、なんで三万のままなんですか」
「いまの計算に、飛ぶ確率が入ってないからだよ。あのな、カクダくん」毛利は箸を置いた。「君はさっき、俺の十年を計算しただろ」
「はい」
「それ、ただ飛ばなかった十年ってだけだ」
角田は毛利を見た。
「俺と同じやり方で飛んだ奴を、君は一人でも知ってるか」
「……知りません」
「俺も知らない」毛利は前を向いた。「いなくなるからな。飛んだ奴は、計算に入ってこないんだよ」
角田は黙った。生存者バイアスだ。
生き残ったものだけを見て法則を作ってはいけない。角田は毎年それを教室で言っている。言っているのに、自分がいまそれをやっていたことには、言われるまで気づかなかった。
気づいてもなお、四割という数字は消えなかった。
それから、もうひとつ引っかかっていたことを聞いた。
「毎月きっちり三十万作れるものなんですか」
毛利はスープを一口飲んだ。
「作れないよ、いつもは」
「え」
「月末が近くて足りてないときは、細かいのをやる。スキャルピングだ。一分足を見て、五銭とか十銭を取る。まあ好みってわけじゃないが」毛利は言った。「二十七日に振り込むことにしてるからさ」
角田はそれを、几帳面な人なのだと受け取った。
角田は考えた。それから、ひとつだけ思ったことを言った。
「でも、それだと、当分わからないですよね」
「何が」
「三万で、一対二で、朝と夜だけ。回数が少なすぎて、それが良かったのかどうか、統計的に判定できるまでに何年もかかります」角田は言った。「勝っても負けても、それが実力なのか運なのか、当分わからないままです」
毛利が、はじめて角田の方を見た。
「そう」
毛利は少し笑った。
「そのとおりだよ。だから当分わからないまま、やるんだ」
角田は自分の顔が不満そうになるのがわかった。
三万通貨に二十銭。一回の負けが六千円で、勝っても一万二千円。当分わからないまま、それを朝と夜に一回ずつ。百万を二百万にするのに、何年かかるのか。それは角田が求めていたものと、まるで違った。
「カクダくんさ、勝ち方を聞きたいんだろ」
「はい」
「じゃあ悪いね。最初に教えることはひとつしかないんだ。勝ち方じゃなくて、生き残り方だ」
毛利はスープを一口飲んだ。
「相場ってのはさ、正解した奴が勝つゲームじゃないんだよ。正解が来るまで卓に座っていられた奴が勝つ。そういうゲームなんだ。どんなにいい手を知ってても、その前に飛ばされたら意味がない。だからまず、飛ばされないようにする。それだけ」
「でも、期待値で考えたら」角田は言った。「大きく張ったほうが、増えるのは速いはずです」
「そりゃそうだ」
「じゃあ」
「期待値ってのはな、飛ばない前提の数字なんだよ」毛利はスープを一口飲んだ。「それが意味をなすのは、卓に座り続けてるあいだの話だ。降ろされたら終わりだ」
角田は納得しなかった。頭では理解できた。だが体は納得しなかった。百万を百十万にするのに半年かけるのなら、割のいい副業でも探した方が早い。角田が欲しかったのは、そういう増え方ではなかった。
実際、角田がこの言葉の意味を本当に理解するのは、一年近く先である。「飛ばされない大きさ」というのが金額の話ではなく、夜ぐっすりと眠れる大きさのことだと知るのは、一睡もできない夜を三日続けた後だ。そのとき彼は、毛利がこの夜ずいぶん優しい言い方をしてくれていたことにも、ようやく気づく。
「ひとつ聞いていいですか」
「うん」
「なんで、あのアパートなんですか」
もっといいところに住めるでしょう、とは言わなかった。十年目という言葉があったからだ。
毛利は少し笑った。
「駅の名前」
「福美?」
「福美駅。含み益」
角田は箸を落としそうになった。またダジャレだ。
「それだけですか」
「それだけ」毛利は真顔に戻った。「相場ってのは、確率でしか喋れない世界なんだよ。何をやっても、次の一回がどうなるか、本当のところは誰にもわからない。じゃあ縁起を担ごうじゃねえか。バカバカしいと思うかい。思っていいよ。でも俺はここに住む」
毛利は丼を両手で持ち上げて、スープを飲み干した。億トレーダーになれたはずの人が、丼の底に残った一切れの海苔を、箸で丁寧に拾っている。
角田は笑った。この夜、彼はそれを、腕のいい人が持っている愛嬌のあるクセだと思った。
だが含み益という名の駅前に住みながら、この人は十年間ずっと、ある含み損を抱え続けていた。
そのことを角田が知るのは、二年以上あとのことだ。




