もう利確だ
その週の終わり、角田は郵便受けの前で毛利と会った。
福美荘の集合ポストは、外廊下の入口にある。角田が自分の郵便物を取っていると、後ろから毛利が来た。缶コーヒーを持っている。
「角田さん。ここ来たとき面白いと思いませんでした?」
「何をですか」
毛利はポストを指した。
二〇二号「毛利」。その真下に、二〇三号「角田」。
「もうり、かくだ」と読み上げた。
意味を結ぶまで、角田は数秒かかった。それから声が出た。利益の確定。
「……もう利確だ」
「そうです」毛利は満足そうに缶を開けた。「君が入ってきた日に見て、笑っちゃって。この物件、そういうの多いんですよ。一階、見てみてください。ほら、南さんと平田さんが並んでる」
「ナンピン」
難平。含み損が出たときに買い増して、平均の建値を下げる手である。うまくいけば傷が浅くなり、しくじれば傷が深くなる。
「ほらね」
角田は笑った。笑いながら、ひとつ訂正しておくことにした。
「あの、俺、かくた、なんです。濁らないんです」
毛利は缶コーヒーを一口飲んで、角田を見た。
真顔だった。
「じゃあ、今日からカクダね」
「え」
「カクタだと『もう利確た』だから。日本語になってない」
角田は面食らった。単なるダジャレではないか。
だが毛利の顔は笑顔ではあるが、冗談を言っている顔ではなかった。名前の読みの誤りを、訂正してやったのはこちらの方だと言わんばかりだった。
*
その夜、二人はアパートから歩いて四分のラーメン屋にいた。
誘ったのは毛利だった。カウンターだけの店で、席は七つ。二人は並んで座った。向かい合わないので、顔を見なくていい。そのせいか、角田は妙に正直にあれこれと話をしてしまった。
「カクダくんさ、何教えてんの」
注文を通したあと、毛利が聞いた。敬語が消えていた。
「数学です」
「何年生」
「二年です。担任は持ってなくて、進路指導の補助に入ってます」
「進路指導」毛利は少し笑った。「そんなのあるんだ」
「ありますよ。二年の今ごろから始めます」
「俺、やった記憶がない」
「進路、決めなかったんですか」
「行ってないんだ。途中から」
「高校を、ですか」
「二年の途中まで。あとは働いてた」毛利は水を一口飲んだ。
角田は、理由を聞いてみたかった。だが、何か事情がありそうだった。立ち入りすぎかと迷っていると、毛利の方から訊ねられた。
「どんな感じなの、学校の先生って」
毛利は本当に知りたそうだった。だから、いろいろ話した。朝が六時半に出ること。授業そのものより会議のほうが疲れること。答案を採点していると、その生徒が何を考えているかが見えること。
「一人、いるんですよ」角田は言った。「数学のよくできるやつが」
「へえ」
「先月の中間試験で、確率を出したんです。一から九の数字が一枚ずつ書いてある九枚のカードから、無作為に四枚選ぶ。偶数が何枚含まれるか、期待値を求めよ」
ラーメンが二つ、カウンターに置かれた。
「二枚より、ちょっと少ないくらいじゃないの」
角田は割り箸を割る手を止めた。
「合ってます。いま、計算しました?」
「いや、まあ計算っていうか」毛利は言った。「偶数は二、四、六、八の四枚だろ。全部で九枚なら奇数が五枚ある。一枚多いから、奇数のほうがすこし出やすい。四枚引くんだから、半々よりちょっと分が悪いぶん、二枚より下かなって」
「合ってます。正確には九分の十六です。一・七七くらい」
「どうやって計算するの」と毛利は訊ねた。
角田は説明した。
この問題を教科書どおりに解くと、こうなる。偶数が〇枚のとき、一枚のとき、二枚のとき……と全部の場合の確率を出す。それぞれに枚数を掛けて足し合わせる。だいたいの生徒は数分はかける。
「その問題を、今の毛利さんみたいに即答した生徒がいました」
「へえ」
「偶数のカードを一枚だけ見るんです。たとえば二のカード。九枚から四枚選ぶとき、その一枚が選ばれる確率は九分の四になる」
「うん」
「偶数は四枚あります。だから四かける九分の四で、九分の十六」
毛利はレンゲを持ったまま、少し黙っていた。
「俺がやったやつに、少し似てる。その正確なバージョンってことか……そうすると、俺が今までやってきたのも、それほど間違いじゃないってことかな」
角田は、その言い方に少し引っかかった。長いあいだ正しさを確かめずに使ってきた道具を、いま初めて保証された人の言い方だった。
「答案は三行でした。俺は採点しながら、こういう解き方を自分で見つける生徒もいるんだなと感心しました」
「頭いいな」毛利はスープを一口飲んだ。
「待田っていうやつです。待つ田んぼで、待田」
「待田くんか」
「そいつが、進路希望を白紙で出したんですよ」
「ほう」
「決まってないのに書いたら嘘になります、って言うんです」
「正しいだろ、それ」
「俺もそう思います。だから何も言えませんでした」角田は言った。「来週まで待つ、って言って別れました。それしか思いつかなくて」
「ふうん」毛利は言った。「待ってるうちは、玉を持てないな」
「玉」
「ポジションのことだよ」毛利は麺をすすった。「待ってるあいだは、勝ちも負けもしない」
また名前で遊んでいる、と角田は思った。郵便受けで同じことをやっていた人である。
角田も麺をすすった。食べながら、気になっていたことを聞くことにした。
「失礼なことを聞きますけど」
「どうぞ」
「この前の、封筒のことですけど」角田は前を向いたまま言った。「あれは、相場でですか」
「相場でって言うのは、相場でこしらえた借金かってこと?」
「そうです」
毛利は笑った。
「逆だよ」
「逆」
「相場で返してんの」
角田は毛利の方を見た。
毛利は前を向いたままだった。
「あれ、親父のなんだ。俺が二十のときに死んで、残ったのがあれ。今年で十年目」毛利はメンマを一本つまんだ。
「二十で、引き受けたんですか」
「相場は高校んときからやってた。バイト代突っ込んで、だいたい負けてたけど」毛利は少し笑った。「それでも、あのときの俺は、いけると思ったんだよ」
「十年目……ということは毛利さんは今」
「二十九」毛利はラーメンを啜りながら答えた。角田の二つ上だ。
「そうか。カクダくん、俺のことを相場で溶かした人だと思ったんだね」
「……思いました」
「まあ、そう見えるよね」
角田は毛利を見誤っていたことを自分自身に認めた。
それから、別のことが気になった。
「毎月、いくら返してるんですか」
「三十万」
「……月に、三十」
「あと自分の食いぶちが、家賃込みで十かからないくらいだ。だから相場から抜いてんのは、月に四十弱だな」
角田は箸を置いた。年に四百八十万である。
「元手は、いくらでやってるんですか」
「口座にいくら入ってるかってこと?」毛利はレンゲでスープをすくった。「千二百くらい。ここ何年か、だいたいそのへんで止まってる」
角田は割り箸の袋を広げて、そこに数字を書いた。
千二百万。年に四百八十万。
四百八十を千二百で割る。〇・四である。
「四割ですね」
「そうなんの」
「年に四割です。それだけ抜いて、元本が減っていない」角田は袋の上の数字を見た。「つまり毎年、四割ずつ増やしてます」
毛利は麺をすすった。それだけだった。
角田はもう一度、数字を見た。
千二百万が一年で千六百八十万になる。そこから四百八十万を抜く。残りは千二百万。次の年も同じ。次の年も。
この人の資産は、十年間、一円も増えていない。
増えていないのは、増やせないからではなかった。増えたぶんを、毎月きっちり外に出しているからだった。
「毛利さん」
「うん」
「もし、返済がなかったら」
「ん?」
「同じ四割で、抜かずに回していたら、どうなりますか」
毛利は答えなかった。だから角田は自分で計算した。
一・四を十回かける。二十九倍近い。それを千二百万に掛ける。
角田は箸袋の裏まで使った。
三億四千万。
角田は顔を上げた。カウンターの向こうで湯気が上がっていて、店主が寸胴の蓋を開けている。隣の男は白い無地のTシャツを着て、ラーメンを食べている。
角田は袋を差し出した。毛利は横目でそれを見て、少し笑った。
「十年ずっと四割だったわけじゃないよ。最初の三年はひどいもんだった」
「でも、桁は」
「桁は、まあ、そんなもんだろうな」
毛利は丼に目を戻した。
角田はこの隣人を、畏敬の念をもって眺めた。億トレーダーになれたはずの人が、いま隣で、丼を抱えるようにして麺をすすっている。




