上昇三角
だが角田はその週、半年ぶんの利益失うことになる。
水曜の夜のことである。
角田は洗濯機を回していた。シャツが足りなくなっていた。休日まで待てない。回している三十分の間、外廊下の手すりに寄りかかってスマホを見ていた。見ていたのはドル円のチャートだった。
夜の八時である。ロンドンが開いてから二時間ほど経っていて、値は動きはじめていた。
帰宅してすぐにポジションを持っていた。売りである。このあと、ドルの価格は下がると踏んでいた。うまくいけば、これまでにない利益が出る。
枚数は十万通貨。普段は三万ほどだ。
この日は形が決まっていた。角田はFXをやるようになって初めて、自分が正しいという確信を持って相場に入っていた。
損切りも、いつもの二十銭から五十銭に広げていた。上のヒゲに引っかかって切られるのが惜しかったからだ。理由としては筋が通っている。角田はそう考えた。
根拠はあった。二つの山ができていた。同じような高さで、二回とも押し返されている。Wトップだと角田は判断した。ネックラインを割れば下だ。さらにストキャスがデッドクロスしていた。
ストキャスティクスは、直近の値幅の中で今の値段が上寄りにいるか下寄りにいるかを測る指標である。二本の線が引かれていて、速い方が遅い方を上から下へ抜けたら売りのサインとされる。
「お、ドル円のチャートですか」
顔を上げると、毛利がいた。缶コーヒーを持っている。この人は昼過ぎに起きて、夕方に缶コーヒーを飲むらしい。
角田は画面を隠さなかった。相手が相場にいることは、こちらが先に知ったのだ。隠す理由は特にない。だが、自分が売りで入っていることは言わなかった。言えば、意見を求めた形になる。角田は、この人物に意見を求める気はなかった。
「ええ、まあ」
毛利は横から覗き込んだ。他人の画面を勝手に見る程度には、距離感に遠慮がない人物である。
「今、上昇三角ができかけてるんですよね」
角田は聞き返した。
「アセトラ」
「二回止められてるでしょう、同じようなところで。でも下、切り上がってきてますよ」毛利は画面を指した。「上が水平で、下だけ上がってくる。だんだん行き場がなくなって、いつか突き抜ける。そういう形です」
上昇三角形だ。
アセンディング・トライアングルという名前も、角田は本で読んだ覚えがあった。上値が揃っていて下値が切り上がる形は、売り手が同じ値段で待ち構えているところへ、買い手が少しずつ前に出てきている状態と説明されていた。教科書には、上に抜けやすい形として載っていたはずだ。
角田は自分のチャートを見た。確かに、二つの山の間の谷と、その後の押しでは、後者の方が高い。
だが角田には、それが根拠に見えなかった。ダブルトップは、二つの頂点とネックラインという、定義された三点で決まる。だが上昇三角というのは、下値のどこに線を引くかで形が変わる。
「まだ、できかけですよね」と角田は言った。
「そう。まだ何とも言えない」毛利はあっさり認めた。「どっちにも行けます」
それから毛利は、画面の下段を指した。
「ストキャス、期間いくつにしてます」
「十四、五、五です」角田は答えた。「デフォルトだと反応しすぎるので、伸ばしました」
「なるほど」毛利は頷いた。「ダマシは怖いですからね」
角田は頷いた。わざわざ言いはしなかったが、三月に、細かいクロスに反応して往復で削られた。だから期間を伸ばした。ノイズを減らすための、合理的な処置だ。
「そのクロス、いつ出ました」
「昨日です」
「動いたのは、その前でしょう」
角田はチャートを遡った。
毛利の言うとおりだった。値が下に振れたのは一昨日で、クロスが出たのはその翌日である。シグナルは、事が済んでから出ていた。
「伸ばせばダマシは減ります。減るけど、遅れる」毛利は缶コーヒーを一口飲んだ。「オシレーターって、そうなんです。早くすればウソが増えるし、遅くすれば間に合わない。どっちかしか選べない。両方はもらえないんですよ」
角田は黙っていた。自分には自分なりの理があるつもりだ。だが、毛利のいうことにも一理ある。
ダマシを減らす、という目的は正しく、角田はそれを正しく実行している。だがその結果、別の何かを差し出してもいる。そのことを深く考えず、半年間、片側しか見ていなかったことに気づいたからだった。
「もうひとつ言うと」毛利は続けた。「三角って、いつか抜けるんですよ。抜けたときにオシレーターは死にます。買われすぎだと叫びながら、上がり続ける」
「……そういうときは、どうするんですか」
「使わない」
毛利はそれだけ言って、自分の洗濯物を取りに竿へ歩いていった。
角田は、ポジションを持ったままだった。
*
その夜、角田はチャートから目を離せなかった。
洗濯物を干し終えて部屋に戻り、スマホを置こうとして、置けなかった。
含み益を示す白い数字が出れば安堵し、含み損の赤い数字が出れば首のあたりに力が入るのを感じた。
五分おきに画面を点ける。値は動いていない。
動いていなくても、チャートを食い入るように見続けてしまう。
十時頃には、画面を落としたスマホを再び点けるまでが三十秒を切っていた。
値が上に伸びはじめたのは、十一時前だった。ニューヨークが開く時刻である。
最初の十銭は、まだ耐えられた。一万円の含み損。赤い数字。
角田は座卓の前に正座して、ノートパソコンを開いた。十三インチの画面に一分足を出し、上がっていく足を一本ずつ見た。指先が冷たくなっていた。心臓が、耳の裏で鳴っていた。
彼は自分に言い聞かせた。戻る。この形なら戻る。
実際には、戻る根拠は何ひとつなかった。角田がそのとき握っていたのは根拠ではなく、ここまで待った時間だった。値が戻れば、待った時間が正しかったことになる。戻らなければ、間違っていたことになる。角田はもう、相場ではなく自分の判断を守るために画面を見ていた。
そして上に抜けた。
角田の売りは、ネックラインが割れるのを待っている間に、逆に踏み上げられた。損切りは置いてあった。
何度か、そのラインを上に動かしたい誘惑に駆られた。まだ戻るのではないかと思ったのだ。だが、どの教科書にもそれだけはやるなと書いてある。彼は精神力を奮って、その教えだけは死守した。
注文が約定し、画面から数字が消えた。スマホが震え、決済を告げた。
角田はしばらく、そのまま座っていた。手のひらが汗で湿っていた。
五月の夜で、部屋は暑くもないのに、Tシャツの背中が濡れていた。
彼の身体は、五万円のために、走った後のような状態になっていた。
時計は十一時半を指していた。明日は一時限目から授業がある。眠らなければならないが、眠れる気がしなかった。
五万円と少しだった。
十万通貨で、五十銭の負け。
いつもの三万通貨で、いつもの二十銭で切っていれば、六千円で済んでいた。八倍以上を、彼はこの一回で払った。
口座は百万入っている。率にして五パーセントほど。角田がこれまでにやった中で一番大きな負けだった。
もちろん破滅的ではない。だが、決して小さくはない。一晩考えるには十分な大きさで、諦めるには足りない大きさだった。
角田がその夜、何度も思い返したのは、負けた金額もあるが、毛利のことだった。
明確に当てたわけではない。「どっちにも行けます」と言った。予言はしていない。ただ、同じチャートを見て、角田がダブルトップだと確信したものを、まだ形になっていない別の何かとして見ていた。角田が「根拠」と断じたものの、点検の仕方を知っていた。
同じ画面を見ながら、違うものを見ていた。
角田はそれが悔しかった。悔しさは、彼が思っていたよりずっと、はっきりした形をしていた。




