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返済予定表

 福美荘は築四十年の安アパートである。

 風呂は、旧時代の遺物とも言うべきバランス釜。浴槽の中に釜が据わっていて、種火をつけて点火する。

 共用の洗濯機は屋外で、二階の東の端に、古い縦型が二台置かれている。脱水がはじまると、建物のこちら側が共振する。洗濯場の屋根は錆びたトタン板だ。揺れで、いつもカタカタ鳴っている。

 それでも駅から徒歩六分でこの家賃だから、文句は言えない。


 その洗濯機だが、今は二台とも塞がっていた。

 角田かくた 圭はカゴを抱えたまま、そこに立っていた。

 左の一台は回っている。右は止まっていた。止まっている方の蓋を開けると、脱水まで終わった誰かの洗濯物が詰まっていた。きっともうすぐ、洗濯物の主が取りに来るだろう。角田は部屋に戻った。だが三十分後にもう一度行くと、まだあった。


 この春で、角田はこのアパートに住んで一年になる。二〇三号室。都内の高校の数学教師で、朝は六時半に出て、帰るのは七時を回る。まとめて洗えるのは休日の午後しかない。その貴重な午後が、今、他人の洗濯物によって塞がっている。

 角田は苛立っていた。分かってはいる。共用の設備を占有されるというのは、金額にすればゼロ円の被害である。だが、分かっていても、腹が立つものは立つ。

 四十分後、三度目に行ったとき、角田は中身を出すことにした。


 濡れた洗濯物を、脇にあった空のカゴに移した。白い無地のTシャツが何枚も出てきた。全部同じである。靴下も全部同じだった。色も種類も同じ。生活というより補給という感じだ。この人はきっと、選ぶ手間を全部やめた人なのだと角田は思った。

 自分の洗濯物を入れ、洗剤を計り、蓋を閉めた。

 それから角田は、カゴの中の他人の洗濯物を見た。この持ち主は、もしかすると、洗濯物のことを忘れているのではないだろうか。

 このまま置いておけば、明日には臭う。今日は風がある。乾かすなら今しかない。今かけておけば夕方には乾く。干す義務はないし、まったく知ったことではないのだが、そんなに量があるわけでもない。

 角田は物干し竿に手を伸ばした。腹を立てた相手を助けるという行為には、いくらかの優越が含まれている。角田の親切には、それが少し混ざっていたかも知れない。


 最後の一枚をかけ終えたとき、後ろで音がした。

「あー、すみません」

 振り返ると、背の高い男が立っていた。二十代の後半くらいに見える。角田と同じか、少し上くらいだ。髪は短く、無精髭がある。着ているのはたった今角田がかけたのと同じ、白い無地のTシャツだった。

「俺のです。それ。すみません、昼寝してて」

 午後二時である。

「いえ」と角田は言った。

「出してくれたんですね。ありがとうございます」男は竿を見て言った。「まさか干すとこまでやってくれる人がいるとは思わなかったな」

「忘れてるかもしれないと思って。洗濯日和だし、量も少なかったので」角田は控えめに言った。

「二〇二の毛利です」

「二〇三の角田です」

「ああ、隣か」毛利は少し笑った。何かおかしいことがあったような笑い方だったが、角田には理由がわからなかった。

 毛利はそれ以上何も言わず、自分の部屋に戻っていった。角田は、この人は昼まで寝ていて、洗濯機を四時間放置して、それを詫びる以上のことをしない人なのだと理解した。

 これが角田の、毛利もうり りょうについての最初の判断だった。


 三日後の夜のことである。


 角田は自分の郵便物を持って部屋に戻り、座卓に置いた。ノートパソコンの隣である。

 画面には書きかけのコードが開いたままになっている。角田が半年前から書いている、FX(外国為替相場)の自動売買プログラムだ。

 あらかじめ条件を決めて書いておく。この線を上に抜けたら買う。この幅だけ逆に行ったら手仕舞う。そう書いておけば、あとは機械が二十四時間、値段を見張って、勝手に売り買いをしてくれる。角田が授業をしている間も、眠っている間も、口座の金は増えていく。

 理屈の上では、そうなるはずだった。その条件の微調整を考えながら、片手間に雑事をやっていた。

 郵便物は三通あった。角田はいつもやるように三通を重ね、端をハサミで切った。

 電気の請求。通販の明細。そして白い封筒——窓のない、無地の封筒だった。角田は端を破って中身を引き出した。三つ折りの通知書を開いて、二行目まで読んだところで、宛名を見ていないことに気づいた。

 毛利 稜 様。

 角田は動きを止めた。

 二〇二と二〇三である。誤配はありうる。以前も一度、隣のガス会社の封筒を受け取ったことがあった。そのときはすぐに気づいて投函し直した。だが今回は、もう開けてしまっていたし、目はもう読んでしまっていた。


 上部に、債権回収会社の名前があった。その下に、太字で、支払期日と、金額。

 借入れ金の返済予定表である。角田はその数字を二度読んだ。

 一度目は桁を読み違えたと思ったからで、二度目は読み違えていなかったからだった。

 四千百二十六万円。

 角田の年収の、ざっくり十倍ほどの額だった。

 しかもそれは元金ではなく、記載を信じるなら残額だった。

 角田は座卓の前に座ったまま、しばらく動かなかった。

 紙は、すべてを読んでしまわないうちに急いで畳んだ。だが封を切ってしまった、という事実が手の中にあった。誤配だったと言って返せば、開けたことが伝わる。かといって、黙って戻すのは卑怯だった。他人の郵便物を開けるという、法律の条文にはっきり書いてあることをやってしまい、こともあろうに、中身が、これだ。

「どうしようか」と角田は一人ごちた。決めかねて、プログラミングはその夜は捗らなかった。


 翌日の夕方、角田は二〇二号室のドアをノックした。

「開いてます」

 中から声がした。

 角田はドアを引いた。五月の夕方で、部屋は風を通すために窓が開いていた。ドアを開けた瞬間、通り抜けた風が角田の前髪を動かした。

 角田は玄関に立ったまま、部屋の中を見た。

 六畳の和室。畳は焼けている。家具はほとんどない。布団が敷きっぱなしになっている。そして壁際に、モニターが四枚あった。

 二枚が横並び、その上に二枚。アームで支えられている。表示されているのはチャートだった。ローソク足が並び、下段にインジケーターが動いている。角田が半年前から毎日見ているものだった。ただし角田のは、十三インチのノートパソコン一台だが。

 ボロアパートの六畳に、そこだけ別の建物のような設備があった。

「ああ、隣の」毛利は椅子を回してこちらを見た。「どうしました」

 角田は封筒を差し出した。

「これ、うちに入ってました」

 毛利は受け取った。角田は言うべきことを言うことにした。

「すみません。開けました。宛名を見ないで開けてしまって、中も、少し見ました」

 毛利は封筒を裏返した。切られた端を見て、それから中身を出した。確かめる素振りは一秒もなかった。内容を見もせずに三つ折りに戻して、そのへんの棚に置いた。

「あー、よくあるんですよ、ここ」毛利は言った。「二〇二と二〇三で、字が似てるんでしょうね」

 角田は、次に何か来るのを待っていた。だが、それだけだった。人が、自分が見られたくないものを他人に見られたときにすることを、角田はひととおり想像していた。取り繕うか、恥じ入るか、怒って謝罪を要求するか、誰にも言うなと口止めするか——。

 毛利はどれもしなかった。「持って来てくれてありがとうございます」と毛利は言った。「わざわざすみませんね」

 角田は頭を下げて、ドアを閉めた。拍子抜けした。

 自分の部屋に戻って、座卓の前に座った。ノートパソコンの画面が明るいままになっている。角田はそれを見て、それから、隣の壁を見た。

 あの部屋には、モニターが四枚ある。


 角田はここで、二つの情報を結んだ。

 きっとこの人は、相場で借金あれを作ったのだ。角田は、自分が半年前から手を出している相場ものの、一番暗い側を見た気がした。同時に、我が身を振り返って、少し安心もした。あそこまでいく人がいる世界に身を置きながら、自分はなんと健全にやれていることだろう、と。

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