第9話「――ないキーホルダー3」
この前、俺は君を水族館に誘った。
本当は少し苦しいけど、降られた理由は知りたい。だから、この代償は仕方のないことなんだと思った。
でもやっぱり、君はずっとどこか虚ろな目をしていた。何かを言いたげで、何かを隠していて、何か思うところがありそうで、ずっと表情が曇っていた。
君なら俺の心をいち早く分かるのに、俺はまるで分かっていない。
だから俺は勝手に水族館は嫌いそうだと言った。本当は分かっている。俺と会うのがすごく苦痛なんだと思う。
でもそれなら、早く喋ってくれたらいいのに。確信を持てないと、俺もどうしようもない。隠している秘密を喋ることが出来ない理由はなんなのか、俺には全く見当もつかない。
そろそろ俺は県大会に出ないといけない。でも、その前にこの蟠りを解いておきたい。気分が全く乗らないから。
せっかく一年なのにスタメンとして出させて貰えるんだ。チームには迷惑をかけてられない。
水族館に行ってからまた週が明けた。
結局、私はいらないキーホルダーをスクールバッグにつけて登校してしまった。これなら私が二個買ったのも正当化される。普段使いのバッグとスクールバッグ用。
でも、こんなの見られたら智花みたいに人が色々と聞いてくるはずだ。なんて答えようか。
「香澄、そのキーホルダーかわいいね」
ほら来た。
「でしょ」
「どこで買ったの?」
「水族館」
「え、彼氏?」
結局こうなるんだ。
「なんでいつもそこに結びつくかな……」
そう言ってもどこか誇らしい。そんな自分が嫌いだ。
「でも水族館よかったね。前 〝イルカのショー見に行きたい〟 って言ってたじゃん」
智花の何気ない言葉は、私の心を突き刺す。
「うん、楽しかったよ」
「羨ましいー」
結局あの日、私はイルカのショーを見れてはいない。一番楽しみにしていて、行きたかったし、言いたかった。
でも、それを言ってしまえば、そこに行ってしまえば、全てが終わってしまう気がした。
こんな苦しい関係は終わらせた方がいい。 そんなこと分かっているけど、私はまだ、線を握っている。交わった日からずっと。まだほのかに暖かいこの線を手放せていない。
冷めてくれないんだ。
冬の冷気に充てられても、雨の冷たさで冷やされても、まるで源泉みたいにずっと温かい。
「でもなんでチンアナゴ?」
「なんででしょう」
「えー、可愛かったから?」
「ぶぶー」
――李月くんが初めて会ったものだったからだよ
なんて言葉は言えるはずもなく、チンアナゴのキーホルダーを触って考えを巡らせていると、手を掴まれた。
久しぶりの手だ。大きくて、温かい。けど、どこか焦っていて暑苦しい。
「そんな簡単な話なわけないでしょ」
身長が高くて、万人受けしそうなこの顔。落ち着いた声。佐江月くんだ。
「佐江月くん、離してくれる?」
「そのキーホルダーちょっと見せてよ」
「いいけど……」
あなたは怖いんだよね……
今頃の佐江月くんは表情から感情や情報が読み取れない。真顔とかでもない。ずっと虚ろで、空を見ている。まるであの時の幻想を見ているかのよう。
そして今頃、私は誰かに後ろをつけられている。誰かは分からない。でもきっと、佐江月くんだと思う。この人からはそんなオーラを感じる。
今も、後を付けて来たんだろう。
「私の手はどうかな!」
そう言って智花が佐江月くんの手首を掴んだ時だった。
「触るな……!!」
佐江月くんは怒りの表情で智花に怒鳴った。
痛い……
その時、私の手を掴む力もどこか強くなった。私を束縛したいとでも言うのだろうか。
この人の持つ線は棘があって痛い。カミソリをくっつけていそうなくらいには痛い。
だから触りたくない。私が怪我をしてしまう。
「離して……痛い……」
佐江月くんはまた読み取れない顔で私を見つめた。でも今回はどこか静かな怒りのようなものを感じた。大方、プライドを貶されたとでも言いたげな感じだろう。
「これで最後だよ。離して佐江月くん。まだ許してないから」
私がキッパリと目を見て言うと、佐江月くんは妙に不気味な笑顔を浮かべて手を離した。
なんなの……
「ごめんね、香澄……もう終わったから」
以前のように優しそうにそう言う佐江月くんに、私は体が震えた。
「怖い」ただその言葉が脳を埋め尽くした。
「でも気をつけて」
また笑みを浮かべて、それだけ言って、佐江月くんは去っていった。何に気をつけろと言うのだろうか。本当に何も理解ができない人は生まれてこの方初めてだ。
「智花、大丈夫?」
震える体を強く硬めて、智花の様子を伺いながらそう聞くと、智花は初めて見せる顔を浮かべていた。
「智花?」
上目遣いで睨んでいる。とても鋭い眼光で歩き去っていく佐江月くんを睨んでいる。さっきまで猫撫で声で媚び売っていたようにはまるで見えない。その目は間違いなく殺意を持っている。
「智花」
私が軽く頬に手を添えると、智花は、はっと表情を戻して私を佐江月くんから離すように手を引っ張った。
「香澄、もう佐江月くんとは絶対に関わらないで」
「うん」
「近づきもしないで」
「うん」
「何かあったら絶対に教えて」
「うん」
「私……あいつ絶対に許さない」
珍しく、智花は本気で怒っているみたいだった。
その顔を見て、私は少し安心した。 頼れる友達がいてよかったと、初めてそう思った。
香澄……なんであんな顔するんだよ。あのときは悪かったけどさ……俺、謝ったじゃん。古河とか言ったよな……あいつさえいなきゃ、もっと深くまでちゃんと話せたのに……邪魔だよ……稲吹も居るし、いつ話しかければいいんだよ……ほんと、邪魔
結局、その後も佐江月くんは私の後を追いかけ回してきた。それは何日も、何週間も、ずっと続いた。
私は智花にも、先生にも相談したが、結局は逆撫でしただけで、なんとか家に逃げられたけど、走って追いかけられたりと、完全なストーカーとなっていた。
次第に怖くて外に出られなくなった。朝に待ち伏せでもされたらどうなるか分からない。いつ私が私でいられなくなるかも分からない。
李月くんにも助けを呼べばいいのに、私は彼を困らせたくないと感じた。
でも怖い……
――助けてりつ
そのまま夏休みになった。あと一週間だけでも学校に行けていたら皆勤賞だったのが、残念だ。
佐江月くんは停学処分や自宅謹慎にはなれど、退学にもならなければ、警察も動いてはくれない。
警察はなにもしてくれないとは噂で聞いていたが、本当に動かないんだと痛感した。
でも、だからって私はどうしようもできない。
今頃、窓からも視線を感じて布団に篭りっきりだ。
李月くんに「らしくないよ」と言ったあの時、私がちゃんとまだ付き合っているということを伝えていれば、未来は変わっていたのかもしれない。
なんであの時……私のばか
夏休みも明け、始業式が来た。 この日だけ、私は親の車で学校に行った。
久しぶりに会った智花は随分と心配しており、ずっと隣にいてくれた。それはもう、トイレのドアの前に立っていようかと提案してくるほどだった。
少しだけその様子に笑えた。でも、ずっと視線を感じた。きっとまだ見ている。
どこかで強引に引っ張られるかもしれない。
あの時は李月くんたちが居たからなんとかなったけど、内心はすごく焦っていた。
連絡先がなかったらどうなっていただろう。古江さんが李月くんを連れてこないつもりでいたらどうなっていただろう。
そんなことを考えると頭が真っ白になる。とても怖いそんなこと。
始業式以来、親の都合も合わず、私はまた家で引き篭もるようになっていた。
今では自室の扉を開けることも怖くなっていた。そこに立っているんじゃないか、聞き耳を立てて、唸っているんじゃないか。体が無意識に震える。
こんな時に李月くんが居てくれたらなんてことを本気で考えてしまう。隣に座って手を握っていて欲しいと思ってしまう。
弱すぎる。私はあまりにも弱すぎる。
始業式から一週間が経ったある日、家のチャイムが鳴った。私の恐怖はマックスに達していた。
涙が溢れる。一層、あの時に従順に従っておけばよかったとさえ思ってしまう。
そんなとき、私のスマホが鳴った。それは李月くんからの通知だった。
内容を確認すると、家まで来たと言っている。でもそれがもし佐江月くんだったら?
私は誰もいないこの自宅で、佐江月くんに今度こそなにをされるか分かったもんじゃない。
考えただけでゾッとする。
そこで私は李月くんに電話をかけた。もし本物なのであれば、玄関前から李月くんの声がするはずだ。
私は勇気を振り絞って玄関からの声が聞こえるギリギリの場所まで歩いた。
「もしもし」
李月くんの声が玄関から聞こえてきた。どこか間抜けで、でも落ち着いていて、少し上からっぽいところが鼻につくような声。
「今頃、学校休んでるって聞いたよ。おーい、聞こえてないのか?」
私は涙を拭くので精一杯だった。でも李月くんが中に入ってくれさえしたら、もっと安心できる。
私は泣きながら玄関の扉を開けて、驚いている李月くんをすぐに家に引っ張って、鍵を閉めた。
「ど、どうしたんだよ。古河さんから家に行ってあげてって言われたから、都合つけて来たんだけど」
私はもうなにも考えられなかった。だから今だけ、彼氏の李月くんで居てほしくて、強く抱きしめた。
「お、おい。何してんだ」
「お願い……今だけ許して」
李月くんは私の震える声を聞いてか、何か察してくれたのか、手を背中に回して、頭を撫でてくれた。
昔もこんなことがあった。私が失敗した時、優しく包んで頭を撫でてくれた。
とても、暖かい。
とても、安心する。
とても、居心地がいい。
「今は俺がいてやる。何かあったんだよな。落ち着いたら話を聞かせてくれ。それまでは、これで泣いてていいから」
少し声色が怒っている。私には分かる。今の李月くんは、猛烈に怒っている。
なんでこんな言葉を私にかけてくるんだろう。苦しい。全てが苦しい。
こんなの意識してしまう。
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