幽言部屋 その17
「ああ」
通話を開始したスマートフォンに一言だけ言い、貴仁は黙ってイヤホンからの声に耳を傾ける。
「わかった。ありがと」
暫くして、再度スマートフォンを口元に近付け、それだけ言うと通話を切った。
「すみません、了也…飯田からの申し送りです」
「あー了也さん、ものすごい勢いで走ってったもんね。用あったの?」
「ああ、そこをちょっと無理言ってね」
言ってしまえば、妹の元に早く帰りたかっただけではあるが、そこには説明の難しい事情がある。
「そーなんだ! でもおかげですっごい助かったよ」
「うんうんうん。飯田さん来なかったら、僕もどうなってたか」
「さっきもまた出てきて暴れるとこだったし! 了也さんドア開いたと思ったら瞬サツしてたけど!」
興奮気味に話す来利に、司は目を丸くし、貴仁は静かに頷く。
「聞いたよ。その辺は本当に良かった。俺じゃ、相手が無傷でっていうのは難しかっただろうし。ところで――」
と、貴仁は言葉を止め、探るように視線を動かす。
「貴仁さん?」
「来た、かも知れません」
貴仁の言葉に、来利は思わず隣室との壁から距離を取り、逆に司は近付いた。
「あれ、でもあの、いつもの『ただいま』って声はなかったですけど」
「そうですね。いつもとは違うのかもしれません。ちょっとここからでは俺には良く解りませんが」
いつもと違うと言う言葉に、来利の顔に不安が浮かぶ。それを横目に捉えた貴仁は、安心させるよう、来利に微笑みかけた。
「危なそうなら、すぐに隣に行くよ。月乃木さんは任せて」
その言葉に来利は笑顔を作り頷くが、続く言葉には表情を重く変えるのだった。
「――その時は一応、二人も部屋からは出て逆方向へ」
「おかえり」と言うや否や、すぐにそれは姿を現す。
黒髪の小さな男の子。
白いワイシャツにかかるズボン吊りは、黒い半ズボンを吊っている。
屈託の無い笑顔を見せれば2番目の歯が1つ無い。
猛烈な違和感が沸き上がる。
この姿、いくらなんでも明確過ぎる。
わたしの見てきた霊たちは、くっきりすれどはっきりはしない。
どんなにちゃんと見たつもりでも、ぼやけて見える訳でなくても、目鼻や服の詳細などははっきり意識できなくて、でも“印象”だけは、生身の人より強くわかる。
でも目の前のこの男の子は、顔や服にいくつもの、はっきりとした特徴が見てとれる。
これは未知。未知は恐怖。
でもそれを認識するより早く、その子はわたしに飛びついた。
「ただいま!」
心臓は跳ね上がり、頭は混乱で白くなる。
だけどもし今恐怖に流され、この子を拒絶したのなら、きっとさっきの憂いが現実になると直感する。
だからわたしは震えるこの手を、この子の背中にそっと当てた。
「おかーさん、どうしたの? なんかへんだよ?」
逃げ出したい気持ちが沸き上がるけど、それは違うと言い聞かせる。
細かいことは考えない。ただ、この子に向かい合う。今はただそれだけでいい。
「……大丈夫、大丈夫、大丈夫」
「おかーさん?」
「大丈夫だよ。ごめんね心配させて」
覚悟を決めたわけでなく、憂う頭を捨てただけ。
恐怖に勝ったわけでなく、恐怖の理由を忘れただけ。
それで何とか気持ちを作り、受け入れるように笑顔を向けた。
その時、景色の変化に気付いた。
明かりのない部屋だった。でも今は明るい食卓。
照明の照らすテーブルには、あたたかな食事が並んでる。
その穏やかな情景に、わたしの心もあたたかくなる。
「おかーさん、だいすき」
「わたしもだよ。じゃあ、ご飯にしよっか」
そして食卓についたとき、その中央に人形が立っていた。
おかっぱの髪をした、その日本人形はこう告げる。
――ああ、確かに今は其れも善い手だね。但し、本来の目的を見失わなければ、の話だが。
ざわりと背筋をなでる感情。その後を追い、憂う頭が戻ってくる。
――そうか。其れなら不安は抑え込もう。何、難しい事でも無いさ、君には多くの友が居る。多少危うい様な事に成ろうとも、結果はそう悪くは成らないだろう。
恐怖の理由を理解しながらも、それを抑える理由も浮かぶ。
息を深く吐き呼吸を整え、懐のなおとくんを軽くなで、改めて今の部屋を見渡す。
「成程これは、面白い、ですねぇ」
そして正面に目を向けたなら、嬉し気に笑顔を向ける男の子。
さて何から話そうか。
わたしは少し、思案する。
「ごはんー!」
「ねえ、今日はどこに行ってたの?」
「ともだちのところだよ!」
思った以上にちゃんとした、普通の霊とは異なる返答。
「お友達? だあれ?」
「おともだちー!」
「なんていうお友達?」
「おともだちだよ!」
「どんな子かな?」
「いつもいっしょ!」
「……男の子? 女の子?」
「おんなのこー!」
成程、少し見えてきた。
“先生”の言葉と併せ導けば、返答は想いでしかなく、言葉はわたしが作ってる。
だから名前はわからないけど、2択や感覚ならわかる。きっとそういうことだろう。
でもそれにしても、今まで逢った霊の中では、2番目に複雑な霊。
さてどうしようと思っていたら、ふと孔のことを思い出す。
あれは多分、この子とどこかの“繋がり”でもある。
そしてそのどこかというのは、きっと一緒にいたお友達。
「ささ、いっぱいご飯食べてね」
「うんー! えへへ、おいしいね!」
今もまだ繋がってるなら、頑張ればもっと見えるかも。
わたしはさっきより強く、みぃこちゃんの眼を借りる。
孔が、見えた。
だけどみぃこちゃんの力では、千里を越える眼になれなくて、その先までは視えはしない。
でも確かに孔の向こうに、誰かの気配を見て取れる。それなら一つやりようはある。
みぃこちゃんを維持しながらも、なおとくんの力を借りる。
線がつながる感覚を得て、わたしは“その子”に声を送った。
≪こんばんは、こんばんは。聞こえる?≫
一言でいえば精神感応。それがなおとくんの持つ力。
わたしの人形の中でもとりわけ、超能力らしい力だけれど、霊聴力の補助ならともかく、念話として使うのは、とても疲れて長くはもたない。
≪だれ?≫
≪あや、わたし、月乃木紬。あなたは?≫
≪だれ、こわい≫
突然見知らぬテレパシーでは、警戒するのは当たり前。長くはもたない力というのに、話す内容をまとめてなかった。
≪団地、204、男の子に会って、えと、お友達の…えと…≫
どう説明をするべきなのかと考えあぐねて言葉に詰まる。
≪■■とおともだち!?≫
だけど相手の興味は惹けて、強い気持ちが返ってくる。
そこに名前が乗っていたけど、固有名は伝わりにくい。思えば霊の言葉と同じ。
≪うぅんと、名前わからない、黒い髪、男の子≫
≪テ■! すごい! すてき!≫
喜ぶ気持ちが伝わってくる。
これなら今なら名前を教えてくれるかも。
≪あなた、名前、知りたい。ゆっくり≫
≪テオ、ともだち! わたし、ルネッタ≫
やっぱりというべきか、それはこの部屋の住人が、ベビーシッターをしていた相手の女の子の名前だった。
はっきりと聞こえた理由は、“先生”との話を思えば、わたしの中に有る言葉ゆえ。
≪…ルネッタ、フルネーム、何…?≫
≪ルネッタは、ル ネ ッ タ・ マ……≫
わたしは気を失った。




