第8話 土地神話
「北村社長がな、土地を買うって言い出した」
一九八八年、六月。
夕食の席で、父さんがそう言った。
「土地? 工場を広げるの?」と母さん。
「いや、そうじゃねえんだ。銀行の人が来てな、今なら金はいくらでも貸すから、土地を買っとけって。札幌でも土地はどんどん上がってるから、持ってるだけで儲かるんだと」
父さんは、ビールを一口飲んだ。
「最近、半導体の部品の注文が増えて、うちも景気がいいだろ。銀行の方から、ぜひ借りてくれって頭下げに来るんだよ。昔は、こっちが頭下げても貸してくれなかったのにな」
俺の箸が、止まった。
銀行。
土地。
借金。
頭の中で、三つの言葉がつながって、一つの映像になった。
前世の北斗精工。
バブルの頃に借金をして買った土地が、崩壊後に暴落した。担保の価値が消え、借金だけが残った。
工場はその重荷を抱えたまま、細々と十年近く生き延び――。
一九九七年、メインバンクの北海道拓殖銀行が破綻した瞬間に、とどめを刺された。
前世の俺は、そこまで詳しくは知らなかった。
父さんの死後、母さんが残された書類を整理しているのを、横で見ていただけだ。
だが、書類の束の一番上にあった「土地取得に係る融資契約書」という文字だけは、なぜかはっきりと覚えている。
「……どこの銀行?」
気づいたら、口に出していた。
「ん? 拓銀だよ。北海道の銀行なら、あそこが一番だろ」
父さんは、何の疑いもなくそう言った。
次の日曜日。
俺は、小樽の祖父に全てを話した。
「なるほどな」
祖父は、腕を組んだ。
「北斗精工の命運を分けたのは、半導体の部品ではない。この土地の借金だった、というわけか」
「うん。前世では、父さんの工場は半導体の部品なんか作ってなかった。今は注文が増えてる分、銀行が余計に貸したがってるんだ」
皮肉な話だった。
俺が工場を救おうとして打った手が、工場に銀行を呼び寄せている。
「北村社長に、土地を買うなと言えばいいだけの話だ」
「でも、誰が言うの? 俺が言っても、子供の言うことなんか聞かない。父さんだって、社長に意見できる立場じゃない」
祖父は、しばらく考え込んでいた。
それから、意外なことを言った。
「――わしが行こう」
「え?」
「お前の父親に会う。札幌の家に、わしが行く」
俺は、目を見開いた。
祖父と父さんは、母さんの結婚以来、一度も顔を合わせていないはずだ。もう十三年以上になる。
「いいの?」
「いいも悪いもない。工場が潰れれば、春子が泣く。孫たちも泣く」
祖父は、ふいと顔を背けた。
「……それに、そろそろ、あの男の顔を見ておいてもいい頃だ」
七月の土曜日。
札幌の借家の玄関に、和服姿の祖父が立っていた。
母さんは、朝から落ち着かなかった。
何度も居間を片づけ、湯呑みを並べ直し、俺に「お父さんに変なこと言わないでね」と念を押した。
父さんは、もっと落ち着かなかった。
一張羅のジャケットを着て、居間の真ん中で正座したまま、じっと畳を見つめている。
「……どうも。ご無沙汰しております」
父さんが、深く頭を下げた。
祖父は、黙ってその向かいに座った。
重い沈黙。
結衣だけが、何も分からずに祖父の和服の袖を引っ張っている。
「おじいちゃん、きもの、きれい」
「……そうか」
祖父の口元が、わずかに緩んだ。
その隙に、母さんがお茶を出した。
「天城くん」
祖父が、口を開いた。
「工場で、半導体の部品を削っておるそうだな」
「は、はい。千分の一の精度で。……どうして、それを」
「春子から聞いた」
嘘だった。
だが、母さんは黙っていた。
「見せてもらえるか。お前の削った部品を」
父さんは、驚いたように顔を上げた。
それから、慌てて立ち上がり、押し入れの奥から小さな木箱を持ってきた。
「試作で削ったやつです。検査に合格した、最初の一個で……記念に、もらってきたんです」
木箱の中で、銀色の部品が光っていた。
祖父はそれを手に取り、窓の光にかざした。
長い、長い時間だった。
祖父は部品を回し、指でなぞり、また光にかざした。
「……わしは、物の値打ちは分かる」
ぽつりと、祖父が言った。
「証券会社で四十年、会社の値打ちを測ってきた。会社の値打ちを決めるのは、最後は、人の腕だ」
祖父は、部品を丁寧に木箱に戻した。
「いい腕だ」
父さんの肩が、震えた。
何か言おうとして、口を開いて、閉じた。
それから、畳に額がつくほど、深く頭を下げた。
母さんが、台所に逃げ込んだ。
背中が、小さく揺れていた。
「――それでだ、天城くん」
しばらくして、祖父は本題に入った。
「工場が土地を買うという話を聞いた」
「ああ、はい。社長が、銀行に勧められて」
「やめさせろ」
ぴしゃりと、祖父は言った。
「わしは証券会社にいた人間だ。今の相場は、狂っておる。土地も株も、実際の値打ちの何倍にも膨らんでいる。こういう時に借金をして土地を買う者は、必ず最後に泣く」
「でも、銀行の人は、土地は絶対に下がらないって……」
「絶対に下がらないものなど、この世にない」
祖父は、父さんの目をまっすぐに見た。
「金を借りるなら、土地ではなく機械に使え。お前の腕を、もっと活かせる機械にだ。土地は何も生まんが、機械と腕は、物を生む」
父さんは、しばらく黙っていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……社長に、話してみます。俺の言うことを聞いてくれるか分からないけど」
「お前の腕があれば、聞くだろう。北村社長がお前を一番の職人だと言っているのは、春子から聞いた」
また、嘘だった。
北斗精工の社長の言葉など、祖父は知るはずがない。
――いや。
装置メーカーを紹介した時から、祖父はずっと、北斗精工のことを調べていたのかもしれない。
八月。
北村社長は、土地の購入を取りやめた。
代わりに、拓銀から借りた金で、最新のNC旋盤を二台買った。
コンピューターで制御する工作機械だ。父さんは毎晩遅くまで工場に残り、操作を覚えた。
「機械の機嫌を取るのが、職人の腕の見せどころだ」
夕食の席で、父さんは楽しそうにそう言った。
祖父に会ってから、父さんの顔つきが少し変わった気がする。
ただ、一つだけ。
工場の取引銀行は、拓銀のままだった。
――それは、もう少し先で、手を打つ必要がある。
一九八八年の年末。
日経平均は、三万円を突破した。
祖父と俺の資産は、一億三千万円になった。
俺は、まだ十二歳だった。




