第7話 ブラックマンデー
一九八七年十月二十日、火曜日。
朝のテレビが、それを伝えた。
『――昨日のニューヨーク株式市場で、ダウ平均株価が一日で五百ドルを超える大暴落となりました。下落率は二十パーセントを超え、一九二九年の大恐慌を上回る過去最大の――』
父さんの箸が止まった。
「おいおい、大恐慌って……大丈夫なのか、これ」
「アメリカの話でしょ?」と母さん。
「アメリカがこけたら、日本もただじゃ済まねえよ。うちの部品の行き先だって、結局はアメリカの工場なんだから」
俺は、黙って味噌汁をすすった。
手が、少しだけ震えていた。
知っていた。
十月十九日。のちに「ブラックマンデー」と呼ばれる日。
日本の株も、今日、記録的な下げになる。
そして――すぐに戻る。
記憶の中では、そうだ。
学校が終わると、俺は駅に走った。
小樽行きの列車に飛び乗る。今日は平日だが、母さんには「おじいちゃんに本を借りに行く」と言ってある。
祖父の家に着くと、居間のラジオが株価を読み上げていた。
『――東京株式市場、日経平均は三千八百三十六円安の二万一千九百十円で取引を終えました。下落率は十四・九パーセント、過去最大の――』
祖父は、縁側で盆栽に鋏を入れていた。
いつもと同じ、静かな手つきだった。
「来たか」
「……じいちゃん」
「座れ。茶でも飲め」
俺は、拍子抜けしたように腰を下ろした。
卓の上の黒電話には、受話器が外されたまま置いてある。
「朝からかかってきて、うるさくてかなわん。昔の知り合いが、皆わしに『どうしたらいい』と聞いてくる。十年も前に辞めた年寄りにだ」
祖父は、苦笑した。
「誰も彼も、真っ青になっておる。持っている株を全部投げ売りしている者もいるそうだ」
「……うちは?」
「先月、言われた通りに半分を現金にした。残りは持ったままだ。今日だけで、八百万ほど減った」
八百万円。
父さんの年収の何年分だろう。
頭では分かっている。すぐに戻る。それどころか、ここから一年ちょっとで日経平均は三万円を超える。
だが、ラジオから流れてくる「過去最大」という言葉が、胸の奥をざわつかせた。
――本当に、戻るのか。
俺は、もう歴史を変えている。
祖父が相場に戻った。北斗精工が半導体部品を作り始めた。小さな変化だ。日本の株式市場全体から見れば、塵のようなものだ。
それでも。
もし、俺の知らないところで、何かが少しずつ狂っていたら。
もし、今回だけは、戻らなかったら。
「蓮」
祖父の声で、我に返った。
「顔が真っ青だぞ」
「……怖いんだ」
正直に言った。
契約の第四条だ。
「記憶では、すぐに戻る。でも、俺はもう歴史を少しだけ変えてる。今日の下げが、記憶と同じかどうかも、本当は分からない。数字は、合ってると思うけど……」
祖父は、鋏を置いた。
しばらく黙って庭を見ていたが、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「わしが若い頃にも、何度も暴落はあった。そのたびに、皆が『今度こそ終わりだ』と言った」
「……」
「だが、相場の世界で本当に終わったことは、一度もない。終わるのは、恐怖に負けて底で投げた者の財布だけだ」
祖父は、俺の方に向き直った。
「お前の記憶が外れることもあるだろう。だが今日のこれは、記憶がなくとも、わしなら買う」
「どうして?」
「日本の会社は、昨日と今日で何も変わっておらん。工場は動き、人は働き、物は売れている。変わったのは、値札だけだ」
値札だけ。
その言葉が、すとんと腹に落ちた。
「皆が恐れている時に、強欲であれ。……前に教えたな」
「うん」
「今が、その時だ」
祖父は黒電話の受話器を戻し、ダイヤルを回した。
「――ああ、わしだ。……慌てるな。いいか、明日の寄り付きで買う。銘柄を言うぞ」
手元の現金、すべて。
祖父は、一つずつ銘柄の名前を挙げていった。証券、銀行、不動産、建設。それに、祖父が独自に選んだいくつかの銘柄。
「……全部か」と、電話の向こうの声が聞こえた。
「全部だ。わしの判断だ。責任はわしが取る」
受話器を置くと、祖父は小さく息を吐いた。
「蓮。わしは、お前の記憶を信じて買うのではない」
「え?」
「お前を信じて買うのだ。お前が今、怖いと正直に言った。だから信じられる」
俺は、何も言えなかった。
鼻の奥が、つんとした。
翌日、十月二十一日。
東京市場は、前日の暴落から一転して大幅に反発した。日経平均は二千円以上値を戻した。
その後も、日本の株価は世界のどこよりも早く立ち直っていった。
アメリカやヨーロッパの市場がもたつく中、東京だけが、まるで何事もなかったかのように上がり続けた。
「記憶の通りだったな」
十一月の小樽。
祖父は、グラフに新しい点を書き込みながら言った。暴落の日に垂直に落ちた線は、すでに半分以上を取り戻している。
「うん。でも……」
「でも?」
「日本だけが、すぐに戻った。それが、たぶん一番まずいことなんだ」
祖父の筆が、止まった。
「世界中が暴落したのに、日本だけ大丈夫だった。だから皆、『日本の株は絶対に下がらない』って思い込むんだ。それで、もっとお金をつぎ込む。土地にも、株にも」
「……神話になる、というわけか」
「うん。土地神話」
祖父は、長いこと黙っていた。
それから、グラフの端に小さく何かを書き込んだ。
『十月二十日 皆が神を信じ始めた日』
「わしらが降りるのは、まだ先だな」
「二年後。一九八九年の、最後の取引日」
「それまで、この神話の上で踊るわけか」
祖父は、皮肉っぽく笑った。
「年寄りには、骨の折れる踊りだ」
その年の大晦日。
未来ノートに、俺は書き込んだ。
一九八七年末。日経平均、二万一千円台。
祖父と俺の資産、七千二百万円。
ブラックマンデーの底で買った株は、年末までに三割近く値上がりしていた。
ページの隅に、もう一行。
「怖かった。でも、じいちゃんが信じてくれた」
鉛筆を置くと、窓の外で雪が降り始めていた。




