第6話 NTT株狂騒曲
一九八七年二月。
日本中が、一つの株の話をしていた。
「ねえ、天城さんちは申し込んだ? NTTの株」
スーパーのレジで、母さんがパート仲間に話しかけられている。
俺は買い物かごを持たされたまま、その会話を横で聞いていた。
「まさか。うちは株なんて」
「もったいない! うちの旦那なんか、親戚の名前まで借りて申し込んだのよ。当たったら、それだけで車が買えるんだって」
電電公社が民営化してできた、日本電信電話株式会社。
その株を国が売り出すというので、普段は株と縁のない主婦や年金暮らしの老人までが、証券会社の窓口に列を作った。
売り出し価格は、一株百十九万七千円。
それでも申し込みは殺到し、抽選になった。
――歴史は、まだ記憶の通りに進んでいる。
「当たったぞ」
二月の日曜、小樽の居間。
祖父は、一枚の通知書を卓に置いた。
「わしの名義で一株。古い知り合いの伝手で、もう一株。合わせて二株だ」
「二株だけ?」
「抽選だと言ったろう。これでも上出来だ」
二株。二百四十万円ほど。
祖父と俺の資産は、すでに四千万円近くになっている。全体から見れば、ほんの一部だ。
「NTT株そのものは、おまけだ」
祖父は、新聞の株式欄を指で叩いた。
「本命は、こっちだろう」
証券株。
NTT株の売り出しで、これまで株を買ったこともない人々が、次々と証券口座を開いている。客が増えれば、証券会社が儲かる。
「NTTが上場して値上がりすれば、皆が『株は儲かる』と思う。もっと人が集まる。その一番の受け皿は証券会社だ」
「じいちゃん、それ、俺が言おうと思ってた」
「ふん。四十年この世界にいたわしを舐めるな」
祖父は、少しだけ得意げに鼻を鳴らした。
去年の秋から、祖父は少しずつ変わってきている。眉間の皺が浅くなり、口数が増えた。
母さんは「おじいちゃん、若返ったみたい」と首をかしげている。
二月九日。NTT株、上場。
初日は、買い注文が多すぎて値段がつかなかった。
翌日、ようやくついた初値は、百六十万円。
テレビのニュースは、どこもかしこもNTTの話題だった。
株価は止まらない。二百万円を超え、二百五十万円を超えた。
「天城さん、うちの旦那、当たったのよ! もう倍よ、倍!」
母さんのパート仲間が、興奮して電話をかけてきたらしい。
母さんは受話器を置いて、ため息をついた。
「みんな、株の話ばっかり。なんだか、怖いくらい」
その言葉に、俺は少しだけ驚いた。
母さんは株のことなど何も知らない。それでも、この熱気の異様さを、肌で感じ取っている。
四月の小樽。
俺は五年生になっていた。
「二百九十万を超えた」
祖父は、方眼紙のグラフに新しい点を書き込んだ。
線は、ほとんど垂直に近い角度で上がっている。
「お前の記憶では、どこまで行く」
「三百十八万円。四月の下旬が天井。そのあとは下がって、何年も戻らない」
祖父は、筆を止めた。
「日付まで覚えているか」
「……二十二日、だったと思う。でも、自信はない」
前世の俺が覚えているのは、NTT株が「三百十八万円で天井をつけた」という話だけだ。
日付は、たぶん四月の終わり頃。それ以上は分からない。
「なら、明日売る」
祖父は、あっさりと言った。
「え? でも、あと三十万近く上がるんだよ」
「蓮。『頭と尻尾はくれてやれ』という言葉を知っているか」
祖父は、縁側の盆栽に目をやった。
「魚の一番うまいところは胴体だ。頭の先から尻尾の先まで全部食おうとする者は、最後に骨を喉に刺す」
「……」
「お前の記憶が完全なら、三百十八万で売れるだろう。だが、お前は今、自信がないと言った。それが全てだ」
――記憶が外れたと思った時は、正直に言うこと。
契約書の第四条を思い出した。
この人は、俺が「自信はない」と言ったことを、ちゃんと聞いていたのだ。
「それに、わしらがNTTで欲張る必要はない。本命の証券株は、まだ上がる。そっちで取ればいい」
「……うん。分かった」
翌日、祖父は二株を二百九十五万円で売った。
その十日ほど後。NTT株は三百十八万円をつけ、そこから坂道を転がるように下がり始めた。
「ほら見ろ。尻尾の分は、くれてやった」
電話口で、祖父はそう言って笑った。
悔しいとは、思わなかった。
記憶は、答えを教えてくれる。
だが、答えにどう向き合うかは、この人が教えてくれる。
五月の夜。
家の前で、沙月が望遠鏡を空に向けていた。
「蓮、見て見て! 木星の縞模様!」
彼女の父親から譲ってもらったという、小さな屈折望遠鏡だった。
沙月は五年生になって、すっかり一人で星を探せるようになっていた。
「ねえ、ニュースでずっとNTTって言ってるけど、あれ何?」
「電話の会社の株。みんなで買って、みんなで値上がりを喜んでる」
「ふーん。みんなが喜んでるなら、いいことなんじゃないの?」
俺は、望遠鏡から目を離した。
「みんなが同じ方向に走ってる時は、ちょっとだけ気をつけたほうがいいんだって。じいちゃんが言ってた」
「蓮のおじいちゃん、変なこと言うね」
沙月は笑って、また望遠鏡を覗き込んだ。
「でも、星は誰が見ても同じ場所にあるから好き。株みたいに、急に動いたりしないもん」
その何気ない一言が、妙に胸に残った。
変わらないもの。
俺がこの先、どれだけ歴史を動かしても、星だけは同じ場所にある。
――秋が来る。
十月十九日。世界中の株が崩れる、あの月曜日が。




