第5話 円高不況と父の腕
一九八六年、四月。
夜の空き地は、まだ雪の匂いがした。
「見えた! 見えたよ蓮、ほら、ぼやーってしてるの!」
沙月の父親が組み立てた天体望遠鏡の前で、沙月がぴょんぴょん跳ねている。
俺は小学四年生になっていた。
ハレー彗星。
七十六年ぶりに地球に近づいたその星は、図鑑の絵とはまるで違った。
尾もろくに見えない、ぼんやりとした小さな光のしみ。
「……思ってたのと、ちがうね」
沙月が、少しだけがっかりしたように言う。
「でも、あれが七十六年かけて太陽の周りを回ってきたんだよ。今度地球に来るのは、二〇六一年」
「二〇六一年かあ。その時、私たちいくつ?」
「八十五歳」
「うわあ、おばあちゃんだ」
沙月は笑って、それから空を見上げた。
「ねえ、蓮。二〇六一年には、宇宙船で彗星を見に行けるかな」
「行けるようにする」
「え?」
「……なんでもない。行けるといいね」
沙月の父親が、横で笑っていた。
「蓮くんは、将来は宇宙飛行士か?」
「ロケットを作る人になりたいです」
「ほう。そりゃいい。沙月も、宇宙の研究をしたいって言っててな。二人で一緒にやったらどうだ」
沙月が「お父さん!」と顔を赤くして抗議している。
俺は、望遠鏡の向こうのかすかな光を、もう一度覗き込んだ。
七十六年。
あの星が次に来る頃、日本のロケットは、どこまで行っているだろう。
*
その年の夏、円は一ドル百五十円台まで上がった。
プラザ合意の前と比べれば、一年足らずで百円近い円高だ。
賭けは、とっくに俺の勝ちで決着していた。
去年の大晦日、円は一ドル二百円ちょうど付近で年を越した。祖父は電話口で一言「勝ったな」とだけ言い、それ以上は何も言わなかった。
そして、記憶の通りに、日本は円高不況に入った。
輸出企業の業績が落ち込み、新聞には「円高倒産」の文字が並ぶ。
日銀は、一月、三月、四月と立て続けに公定歩合を引き下げた。
祖父と俺の「投資会社」は、順調だった。
不動産、建設、銀行、証券、電力。金利低下と円高の恩恵を受ける銘柄は、軒並み値上がりしていた。
二千万円の元手は、秋には三千万円を超えていた。
――だが、その秋。
円高不況は、俺の家の食卓にもやってきた。
*
「……工場の注文が、半分になった」
ある夜、居間から父さんの声が聞こえた。
トイレに起きた俺は、廊下で足を止めた。
「半分って……大丈夫なの?」
「大丈夫じゃねえよ。うちの部品は、ほとんどが輸出の機械向けだ。親会社が海外に工場を移すとか言い出してる。社長は、来年まで持たないかもしれないって」
ふすまの隙間から、背中を丸めた父さんが見えた。
卓の上には、空になったビールの缶が三本並んでいる。
「人を減らすって話も出てる。……俺みたいな、学のない職人から切られるんだろうな」
「そんなこと……」
「いいんだ。悪い。お前に言っても仕方ねえよな」
父さんは、無理に笑っていた。
母さんは何も言わず、父さんの背中をさすっていた。
俺は、静かに布団へ戻った。
天井を見つめる。眠れなかった。
前世でも、父さんの工場はこの円高不況を乗り越えた。
苦しい時期はあったが、潰れたのは十二年後、拓銀の破綻に巻き込まれてからだ。
だが、本当にそうなるのか。
俺はすでに、歴史を少しだけ変えている。祖父が相場に戻り、二千万円が動いた。それが、どこかで何かを狂わせていないとは言い切れない。
それに――。
乗り越えられたとしても、父さんの工場は、ずっと「親会社の言いなり」の下請けのままだ。
だから最後に、銀行一つ潰れただけで、あっけなく倒れた。
なら、今変えればいい。
俺は、前世の知識を必死にたどった。
一九八六年。円高不況。その中で、伸びていった産業は何だったか。
――半導体だ。
この時代、日本の半導体は世界の頂点に立とうとしている。
メモリの世界シェアで、日本はアメリカを追い抜きつつある。今年の九月には、それを警戒したアメリカとの間に日米半導体協定が結ばれた。
半導体を作るには、製造装置がいる。
そして製造装置は、とんでもない精度の金属部品の塊だ。百分の一ミリ、千分の一ミリの世界。
前世の俺がロケットエンジンを設計していた時、その精度を出せる町工場を、日本中を探し回ったことがある。
父さんの腕なら。
あの人の旋盤の腕なら、きっと――。
*
「父さん。工場、見に行ってもいい?」
日曜の朝、俺がそう言うと、父さんは目を丸くした。
「工場? 面白いもんなんか何もないぞ」
「見たいんだ。父さんが仕事してるとこ」
父さんは照れくさそうに頭をかき、それから笑った。
「……しょうがねえな。休日出勤の日だから、ちょっとだけだぞ」
北斗精工。
札幌の工業団地の外れにある、従業員二十人ほどの小さな工場だ。
トタン屋根の下に、旋盤やフライス盤が並んでいる。機械油の匂い。金属の削れる音。
懐かしかった。
前世で、エンジン部品を頼みに回った、日本中の町工場と同じ匂いだ。
父さんは作業着に着替えると、一台の旋盤の前に立った。
材料の金属棒を取りつけ、刃物を当てる。
キィィン、と高い音。
銀色の削りくずが、螺旋を描いて飛び散る。
俺は、息を呑んだ。
父さんの手は、まるで機械の一部のように動いていた。
ハンドルをわずかに回し、止め、また回す。迷いがない。
削り終えた部品を、マイクロメーターで測る。
「……よし。百分の一、ぴったりだ」
父さんは、事もなげにそう言った。
「父さん、それ、もっと細かくできる?」
「ん? 千分の一ってことか? やれと言われりゃ、やれなくはないな。機械の機嫌次第だけどよ」
千分の一ミリ。
それを、汎用の旋盤で「やれなくはない」と言う職人が、どれほど貴重か。
前世の俺は、知っていた。そして、そういう職人たちが不況の中で次々に職を失い、技術ごと消えていったことも。
「父さん」
「なんだ」
「父さんの腕なら、宇宙にだって届くよ」
父さんは、きょとんとした。
それから、腹を抱えて笑い出した。
「宇宙! そりゃいい。蓮のロケットの部品は、父さんが削ってやるよ」
油まみれの手で、俺の頭をぐしゃぐしゃに撫でる。
俺も、つられて笑った。
――冗談じゃないよ、父さん。本気だ。
*
「半導体の製造装置、か」
翌週の小樽。
俺の話を聞いた祖父は、腕を組んで唸った。
「これから日本の半導体工場は、どんどん増える。装置メーカーの注文も増える。でも、精密な部品を作れる工場が足りなくなるんだ。父さんの工場なら、できる」
「……お前の父親の工場を救えと言うのか」
祖父の声には、まだ少しだけ棘があった。
娘を奪った男。祖父にとって、父さんはそういう存在だ。
「工場を救うんじゃない。日本の技術を守るんだ」
俺は、まっすぐに祖父を見た。
「父さんみたいな職人が、日本中の町工場にいる。その人たちが不況でいなくなったら、二度と戻ってこない。俺の前世では、そうなった。日本がロケットを作れなくなったのは、お金がなかったからだけじゃない。作れる人が、いなくなったからなんだ」
祖父は、しばらく黙っていた。
それから、深くため息をついた。
「……東京に、半導体装置を作っている会社の役員を知っている。昔、上場の時に面倒を見てやった男だ。紹介状くらいは書いてやろう」
「本当!?」
「ただし、わしの名前は出すな。お前の父親の工場が、自分の腕で注文を取れ。それができんようなら、どのみち長くは持たん」
*
年末。
北斗精工に、東京の装置メーカーから試作部品の注文が入った。
工場の社長がどういう経緯でその話を掴んだのか、父さんは知らない。
「なんだか知らねえが、東京から急に話が来たんだと」と、首をひねっていた。
試作品の担当は、父さんだった。
社長が「天城の腕が一番だ」と、名指しで任せたらしい。
年が明ける頃、父さんが削った部品は、要求精度を満たして検査に合格した。
春からは、量産の注文も入る見込みだという。
「いやあ、まいったまいった。千分の一だぞ、千分の一。久しぶりに本気出したわ」
大晦日の夜。
父さんは上機嫌でビールを飲み、何度も同じ話をした。
母さんは「はいはい、もう五回目」と笑いながら、父さんのコップにビールを注いでいた。
結衣は、こたつで丸くなって眠っている。
俺は、テレビから流れる紅白歌合戦を聞きながら、そっと『未来ノート』を開いた。
一九八六年末。
日経平均、一万八千円台。一年で、四割以上の上昇。
祖父と俺の資産、三千五百万円。
そして、北斗精工、半導体装置向けの精密部品へ。
ページの隅に、小さく書き足す。
「歴史、少しだけ変わった」
まだ、ほんの少しだ。
日本全体から見れば、小さな町工場の一つが、少しだけ違う道を歩き始めただけ。
だが、確かに変わった。
ノートをめくる。
次のページには、太い字で書いてある。
「一九八七年二月 NTT株上場」
来年は、勝負の年だ。
除夜の鐘が、遠くで鳴り始めた。
俺は、ノートを閉じた。




