第4話 秘密の共有
日曜日の小樽は、冷たい雨が降っていた。
一人で列車に乗るのは、この体になってから初めてだった。
母さんは心配したが、「駅までおじいちゃんが迎えに来てくれる」と言うと、渋々送り出してくれた。
実際、改札の向こうに、黒い傘を差した祖父が立っていた。
何も言わずに歩き出す背中を、俺は黙って追いかけた。
居間に通されると、祖父は障子をぴたりと閉めた。
卓の上には、方眼紙のグラフ。九月二十四日のところで、線が崖のように垂直に落ちている。
「座れ」
向かい合って、正座する。
雨の音だけが、部屋を満たしていた。
「単刀直入に聞く。お前は、何者だ」
祖父の目は、まっすぐに俺を射抜いていた。
ごまかしは効かない。この人は、四十年間、嘘と欲が渦巻く世界で生きてきたのだ。
俺は、ひとつ息を吸った。
「――俺は、二〇三〇年から来た」
祖父は、表情を変えなかった。
「二〇三〇年の三月、俺は五十三歳で死んだ。事故だった。目が覚めたら、今年の四月の、九歳の体に戻ってた」
「……」
「信じられないと思う。俺だって、まだ半分信じられない。でも、プラザ合意のことを知っていたのは、それが理由だよ」
長い沈黙だった。
雨脚が、少し強くなった。
「証明できるか」
祖父が、静かに言った。
「未来のことなら、どうとでも言える。わしが確かめられるのは、何年も先だ。――今、ここで、わしが信じるに足るものを出せ」
俺は、目を閉じた。
この人に、ただの予言は通じない。
ならば――。
「じいちゃんの、葬式の話をしてもいい?」
祖父の眉が、わずかに動いた。
「葬式の時、母さんが言ってたんだ。『おじいちゃんは、本当は最後まで現役でいたかった。バブルのこと、ずっと前から必ず崩れるって言ってた。誰も聞かなかったけど』って」
祖父の顔から、血の気が引いた。
「それから、もう一つ。母さんは、じいちゃんの書斎で手帳を見つけたって言ってた。表紙の裏に、ばあちゃんの写真が挟んであって――」
前世の葬式の日。
泣き腫らした目で、母さんが見せてくれた、古びた黒い手帳。
「その写真の裏に、『富美子、すまない。わしは間違っていなかった』って書いてあった」
ばさり、と音がした。
祖父の手から、湯呑みが卓に倒れていた。
こぼれた茶が、方眼紙のグラフに染みを広げていく。
祖父は、それに気づいてもいないようだった。
「……誰にも、見せたことはない」
かすれた声だった。
「あの手帳のことは、誰にも。富美子が死んでから、一度も、誰にも――」
祖父は、両手で顔を覆った。
肩が、小さく震えていた。
俺は、何も言えなかった。
前世の母さんは、あの手帳の言葉の意味を知らなかった。俺も、知らなかった。
だが今なら、分かる気がした。
この人は、正しかった。
正しかったのに、誰にも信じてもらえず、会社を追われ、最愛の人を亡くした。
その悔しさを、誰にも言えないまま、たった一人で死んでいったのだ。
*
どれくらい、そうしていただろう。
祖父はゆっくりと顔を上げ、布巾でこぼれた茶を拭いた。
その手は、もう震えていなかった。
「――話せ。全部だ」
俺は、話した。
これから日本に起きること。
円高不況。金利の引き下げ。株と土地の狂乱。
NTT株の上場と、ブラックマンデー。
一九八九年の大納会、三万八千九百十五円。
そして、崩壊。
一九九〇年からの下落。不良債権。何年も先送りされる処理。
一九九七年の金融危機。銀行と証券会社の破綻。
「北海道の銀行も、潰れる」
俺がそう言うと、祖父は目を細めた。
「……どこだ」
「北海道拓殖銀行」
祖父は、絶句した。
北海道で一番大きな銀行だ。この時代の道民にとって、拓銀が潰れるなど、太陽が西から昇るような話だろう。
「その翌年、父さんの工場が連鎖倒産する。父さんは体を壊して、死ぬ」
声が、少しだけ震えた。
「母さんは、それから二十年以上、パートを掛け持ちして働き続けた。俺は――何もできなかった」
祖父は、黙って聞いていた。
それから、日本のその後のことも話した。
失われた十年が二十年になり、三十年になったこと。半導体も、家電も、世界で負けていったこと。
そして、俺が人生をかけた宇宙開発も、海外に買われて終わったこと。
話し終えた時、雨は小降りになっていた。
「……そうか」
祖父は、長く、長く息を吐いた。
「わしは、間違っていなかったのか」
「うん」
「だが、間違っていなかったからといって、何も救えんかったのだな」
その言葉は、俺自身にも突き刺さった。
未来を知っているだけでは、何も変わらない。
知っていることを、力に変えなければ。
「じいちゃん」
俺は、畳に両手をついた。
「力を貸してほしい。俺は子供だから、口座も作れないし、誰も話を聞いてくれない。でも、じいちゃんなら」
「わしの金で、相場を張れと言うのか」
「お金だけじゃない。じいちゃんの知識と、人脈と、経験がほしい。記憶だけじゃ足りないんだ。歴史を変えれば、俺の記憶はいつか外れる。その時に頼れるのは、じいちゃんが教えてくれる相場の見方なんだ」
祖父は、腕を組んだ。
しばらく目を閉じていたが、やがて立ち上がり、奥の部屋へ消えた。
戻ってきた祖父の手には、一冊の預金通帳と、半紙と筆があった。
「わしの蓄えは、退職金と合わせて二千万ほどある。年寄りが一人で死ぬまでに使い切れる額ではない」
通帳を卓に置く。
「これを元手にする。名義はわしだ。売り買いの最後の判断も、わしがする。お前は、わしに意見を言え」
「……いいの?」
「ただし、条件がある」
祖父は筆を取り、半紙にさらさらと書き始めた。
見事な楷書だった。
一、学校の勉強を怠らぬこと
一、子供らしく遊ぶこと
一、家族には、時が来るまで話さぬこと
一、記憶が外れたと思った時は、正直に言うこと
「二つ目は、何?」
「お前は五十を過ぎた男の頭で、子供の体を生きておる。だが、その体の時間は一度きりだ。友と遊べ。空を見ろ。――大人の頭だけで生きると、人はわしのようになる」
祖父は、少しだけ笑った。
初めて見る、穏やかな笑顔だった。
「それから、儲けの半分はお前のものだ。お前が大人になった時に渡す」
「半分も?」
「当たり前だ。わしは情報に金を払う。相場の世界の常識だ」
祖父は半紙の端に自分の名前を書き、朱肉を差し出した。
俺は、その横に「天城蓮」と書いて、親指を押しつけた。
小さな拇印。
九歳の子供と、六十八歳の老人の、秘密の契約書だった。
「さて、蓮。お前の記憶では、これから何が上がる」
契約書を丁寧に畳みながら、祖父が聞いた。
その目は、もう相場師の目に戻っていた。
「金利が下がると、一番得をするのは借金の多い会社。不動産と、建設と、銀行と証券。それから、円高で輸入品が安くなるから、電力やガスも」
「内需株か。理屈は通っておる」
「それと、再来年の二月。NTTの株が上場する。最初の値段の倍以上まで上がるよ」
「NTTは抽選になるだろう。応募が殺到する」
「うん。だから、できるだけたくさんの口で申し込みたい」
祖父は、ふむ、と顎を撫でた。
「それはわしの古い知り合いに頼む。……まずは、今ある金をどう張るかだ」
祖父は立ち上がり、黒電話の受話器を取った。
ダイヤルを回す、ジーコ、ジーコという音。
「――もしもし。高野だ。……ああ、久しぶりだな。まだ生きておるわ」
受話器の向こうの誰かと話す祖父の声は、俺が知るどの声よりも張りがあった。
十年ぶりに、相場の世界に戻ってきた男の声だった。
「月曜の寄り付きで、注文を出したい。銘柄を言うぞ――」
窓の外を見ると、雨は上がっていた。
雲の切れ間から、港の向こうに薄日が差している。
高野宗一郎、六十八歳。
天城蓮、九歳。
二人だけの投資会社が、この日、産声を上げた。




