第3話 九月二十二日
それから俺は、毎月小樽へ通うようになった。
賭けの結果が出るまでは、来なくていいはずだった。
だが二度目に顔を出した時、祖父は何も言わずに居間へ通し、分厚い本を一冊、俺の前に放り出した。
「読め」
会社四季報だった。
全上場企業の業績や財務が、細かい数字でびっしり並んでいる。小学生に読ませる本ではない。
「相場の話をしたいなら、まず会社を知れ。数字の読めん者に、相場を語る資格はない」
それからの数か月、俺は祖父から「株式投資のいろは」を叩き込まれた。
貸借対照表と損益計算書の読み方。
自己資本比率。利益率。配当。
景気と金利と為替が、どうつながっているのか。
正直に言えば、知っていることも多かった。
前世の俺は技術屋だったが、会社を経営していた以上、財務の基礎くらいは身につけている。
だが、祖父の話はそれだけではなかった。
「数字は過去しか教えてくれん。相場を動かすのは、未来に対する人間の欲と恐れだ」
縁側で茶をすすりながら、祖父はそう言った。
「皆が強欲な時に恐れ、皆が恐れている時に強欲であれ。……アメリカの、ある投資家の言葉だ」
「知ってる」
「ほう」
「でも、それができる人は少ないんでしょ」
祖父は、ちらりと俺を見た。
「そうだ。分かっていても、人は群れから離れられん。群れが崖に向かって走っていても、だ」
その言葉には、妙な重さがあった。
この人は、かつて群れの中で「崖がある」と叫び、誰にも聞いてもらえなかったのだろうか。
俺は気づき始めていた。
未来の記憶は、俺に「何が起きるか」を教えてくれる。
だが「なぜ起きるのか」「その時、人はどう動くのか」は教えてくれない。
そして歴史を変えれば、記憶はいつか外れる。
その時に頼れるのは、この人が教えてくれる「相場の見方」のほうだ。
――記憶だけじゃ、足りない。
俺は、毎月の小樽行きを、本気で楽しみにするようになっていた。
「ねえ蓮、ハレー彗星って知ってる?」
夏休み明けの教室で、沙月が目を輝かせて話しかけてきた。
机の上には、図書室から借りてきたらしい天文図鑑が広げてある。
「七十六年に一回しか来ない彗星なんだって。それが、来年見えるんだよ! 次に来るのは、えっと……二〇六一年! そしたら私たち、おばあちゃんとおじいちゃんだよ」
「……そうだね」
二〇六一年。
前世の俺は、その年を迎えることなく死んだ。
「でもね、お父さんが言ってた。今回は地球からちょっと遠いから、あんまりよく見えないかもって」
「それでも、望遠鏡なら見えるよ」
「本当? じゃあ、来年一緒に見よ! お父さんの望遠鏡、すごいんだから」
沙月は図鑑のページをめくり、彗星の尾の絵を指でなぞった。
「いいなあ。私も、いつか宇宙に行ってみたいな」
その言葉に、俺は思わず彼女の顔を見た。
前世で、俺はこの子と、こんな話をしたことがあっただろうか。
覚えていない。たぶん、ちゃんと聞いていなかったのだ。
「行けるよ」
「え?」
「沙月なら、きっと行ける」
沙月は一瞬きょとんとして、それから「蓮って、たまに大人みたいなこと言うよね」と笑った。
*
九月二十三日、月曜日。秋分の日。
夜のニュースが、それを告げた。
『――ニューヨークで開かれた先進五か国の蔵相・中央銀行総裁会議は、ドル高を是正するため、各国が協調して為替市場に介入することで合意しました。会議が開かれたホテルの名前から、「プラザ合意」と呼ばれています』
夕食の手が止まった。
来た。
記憶の通りだ。日付も、場所も、何もかも。
「なんだ、難しいニュースだな」
父さんがビールのコップを置き、テレビに目をやる。
「ドルを下げるってことは、円が高くなるってことか」
「そうみたいね」と母さん。
「……参ったな。うちの工場、輸出向けの部品が多いんだ。円が高くなったら、注文が減るかもしれん」
父さんはそう言って、少しだけ眉を寄せた。
そしてすぐ、いつもの調子で笑った。
「ま、なるようになるさ。社長がなんとかするだろ」
俺は、黙って味噌汁をすすった。
前世でも、父さんはこうやって笑っていた。
その「なんとかなる」が、最後には一番悪い形で裏切られるのを、俺は知っている。
――父さんの工場のことも、考えなきゃいけない。
*
翌日、九月二十四日。
東京の為替市場は、プラザ合意を受けて最初の取引日を迎えた。
学校から帰ると、夕刊の一面に大きな見出しが躍っていた。
『円、急騰』
一日で、二十円以上。
一ドル二百四十円台だった円は、一気に二百二十円台へ跳ね上がっていた。
その夜、八時過ぎのことだった。
居間の黒電話が鳴った。
「はい、天城です。……え、お父さん?」
受話器を取った母さんが、驚いた声を上げる。
祖父から電話がかかってくることなど、この家では一度もなかったはずだ。
「はい……はい。蓮ですか? ええ、いますけど……」
母さんが、戸惑ったように俺を見た。
「蓮。おじいちゃんが、あなたに代わってって」
受話器を受け取る。
ずしりと重い、黒いプラスチックの感触。
「……もしもし」
受話器の向こうで、しばらく沈黙が続いた。
かすかな息づかいだけが聞こえる。
『――お前、何を知っている』
低く、押し殺した声だった。
『二十円だ。たった一日で、二十円動いた。わしは四十年この世界にいたが、こんな動きは見たことがない。……それを、お前は春に言い当てた』
「うん」
『秋に、アメリカが日本と西ドイツと手を組む。お前は、そう言ったな。偶然で、そこまで当たるものか』
また沈黙。
やがて祖父は、一言ずつ区切るように言った。
『今度の日曜、小樽に来い。――一人でだ』
電話は、そこで切れた。
ツー、ツー、という音を聞きながら、俺は受話器を握りしめていた。
背中に、冷たい汗が流れている。
賭けの期限は、大晦日だった。
まだ三か月以上ある。
それでも、あの人はもう気づいてしまったのだ。
これは、子供の当て推量などではない、と。
――覚悟を決める時だ。
受話器を置くと、母さんが心配そうにこちらを見ていた。
「おじいちゃん、何て?」
「日曜日に、遊びにおいでって」
俺は笑ってみせた。
ちゃんと、子供らしく笑えていたかどうかは分からない。




