第2話 偏屈な祖父と、九歳の予言
「おじいちゃんに会いたい?」
日曜の朝、台所で俺がそう切り出すと、母さんは洗い物の手を止めた。
「どうしたの、急に。小樽のおじいちゃんでしょ? 蓮、ほとんど会ったことないじゃない」
「だから会いたいんだよ。……学校で、おじいちゃんの仕事のこと調べる宿題が出たんだ」
嘘だった。
だが、九歳の子供が祖父に会いたがる理由としては、これくらいがちょうどいい。
母さんはしばらく黙っていた。
前世の記憶をたどれば、理由は分かる。
母さんは若い頃、祖父の反対を押し切って父さんと結婚した。「町工場の職人に娘をやれるか」と怒鳴られ、それきり、ほとんど口をきいていない。
「……お父さん、今日は工場の当番だしね」
母さんは小さく息をつくと、エプロンを外した。
「いいよ。行こうか。結衣はお隣さんに預けていくから」
*
札幌から小樽までは、函館本線で四十分ほど。
車窓の右手に、灰色の日本海が広がった。春先の海は荒れていて、白い波が岩場に砕けている。
小樽の駅を出ると、潮の匂いがした。
坂の多い街だ。石造りの古い倉庫が並び、運河沿いにはまだ観光客もまばらだった。この街が観光地として本格的に賑わうのは、もう少し先のことだ。
祖父の家は、港を見下ろす高台にあった。
黒い瓦屋根の、古い木造の平屋。玄関の脇には、手入れの行き届いた松の盆栽がずらりと並んでいる。
「……ごめんください」
母さんの声が、少しだけ震えていた。
引き戸が開く。
現れたのは、白髪をきっちりと撫でつけた和服の老人だった。
背は高く、痩せている。だが眼光だけが異様に鋭い。人を値踏みするような目だ。
「……春子か」
母さんの名前を呼んだきり、祖父は黙った。
長い沈黙のあと、視線が俺に落ちる。
「その子が、あの男の息子か」
「蓮です。おじいちゃんに会いたいって、この子が」
「ふん」
祖父は鼻を鳴らし、背を向けた。
「上がれ。茶ぐらいは出す」
通された居間は、驚くほど片づいていた。
ただ一角だけ、新聞と雑誌が山のように積まれている。日本経済新聞。会社四季報。英字の経済誌まである。
卓の上には、方眼紙に手書きされた折れ線グラフ。日付と数字がびっしりと書き込まれていた。
――引退してなお、毎日相場を追っているのか。
前世の俺は、この人のことを何も知らなかった。
ただの偏屈な老人だと思っていた。
母さんが台所で茶を淹れている間、俺は祖父と二人きりになった。
祖父は縁側に座り、盆栽の枝に鋏を入れている。俺のことなど見向きもしない。
「おじいちゃん」
「……なんだ」
「そのグラフ、ドル円でしょ」
鋏の音が、止まった。
「今、一ドル二百五十円くらい。でも、もうすぐ大きく動くよ」
祖父がゆっくりと振り返る。
その目には、明らかな苛立ちが浮かんでいた。
「子供が相場を語るな」
「アメリカは、今のドル高に耐えられない。貿易赤字と財政赤字、両方が膨らみすぎてる。秋ごろには、アメリカが日本や西ドイツと手を組んで、ドルを下げにくる。年内に、円は二百円近くまで上がる」
一息に言い切った。
祖父は黙っていた。
縁側の向こうで、カモメが鳴いた。
「……誰に吹き込まれた」
「誰にも」
「春子か。いや、あれにそんな知恵はない。あの男――お前の父親か」
「父さんは旋盤のことしか分からないよ」
祖父の眉が、ぴくりと動いた。
鋏を置き、俺の正面に向き直る。
「ならば聞こう。円が二百円まで上がったら、日本の株はどうなる」
試されている。
俺は、言葉を選んだ。
「最初は輸出の会社が苦しくなる。車や電機、それに輸出向けの部品を作ってる町工場も。円高不況になる」
「それで?」
「不況を止めるために、日銀は金利を下げる。何度も。そうすると、お金が余る。余ったお金は株と土地に流れて、どんどん値段が上がる。……四年後には、日経平均は今の三倍くらいになる」
沈黙。
それから、祖父は乾いた声で笑った。
「三倍。今が一万二千円台だぞ。三万六千円になるとでも言うのか」
「もっと上がるよ。三万九千円近くまで」
「馬鹿馬鹿しい」
そう吐き捨てながらも、祖父の目は笑っていなかった。
じっと、俺の顔を見つめている。
子供の嘘を見抜こうとする目ではない。相場師が、相手の手札を読もうとする目だった。
「……それから、どうなる」
「え?」
「三万九千円まで上がった、その後だ」
今度は、俺が言葉に詰まる番だった。
この人は、上がり続ける相場の「その後」を、最初に聞いた。
「――崩れる。全部」
俺は、小さくそう答えた。
「土地も株も、一気に下がる。銀行は貸したお金が返ってこなくなって、何年も、何十年も苦しむ。日本は、長いあいだ元気をなくす」
祖父は何も言わなかった。
ただ、その横顔がわずかに強張ったのを、俺は見逃さなかった。
「賭けをしようよ、おじいちゃん」
「……賭け?」
「今年の大晦日までに、一ドルが二百十円より円高になったら、俺の話をちゃんと聞いて。外れたら、もう二度と相場の話はしない」
祖父は、しばらく俺を見据えていた。
やがて、ふっと口元を緩める。
「賭けにもならんな。子供の当て推量に付き合う年寄りがどこにいる」
「じゃあ、だめ?」
「――いいだろう」
祖父は盆栽の鋏を拾い上げ、再び枝に向き直った。
「ただし、外れたら小樽には二度と来るな。……当たったら、月に一度は顔を見せろ」
帰り際。
玄関で靴を履いていると、祖父が母さんに向かって、ぶっきらぼうに言った。
「春子」
「……はい」
「たまには、孫を連れて来い」
母さんの肩が、小さく震えた。
何か言おうとして、言葉にならず、ただ深く頭を下げた。
帰りの列車の中で、母さんはずっと窓の外を見ていた。
夕暮れの日本海が、オレンジ色に光っている。
「おじいちゃんがね、あんなこと言うの、初めて聞いた」
母さんはそう呟いて、少しだけ笑った。
目の端が、赤くなっていた。
「蓮。おじいちゃんと、何の話してたの?」
「……お金の話」
「お金?」
「うん。日本が、これからどうなるかって話」
母さんは「変な子ねえ」と笑い、俺の頭を撫でた。
変な子でいい。
俺は、窓に映る自分の顔を見つめた。
九月二十二日。
ニューヨーク、プラザホテル。
あと、五か月。




