第25話 二十歳の約束
一九九六年四月十日。
俺は、二十歳になった。
札幌駅前の、あの古い雑居ビルの三階。
山岸投資顧問の事務所で、俺は一冊のファイルを受け取った。
「信託の、最終報告だ」
山岸は、少しだけ誇らしげに言った。
「高野さんが亡くなった時点で、二億三千万円。去年、地震の研究の寄付に一割を出した。それでも、今日の時点で――」
山岸は、ファイルの最後のページを開いた。
「五億二千万円」
俺は、その数字を見つめた。
「マイクロソフトとインテルが、この三年で何倍にもなった。去年の夏には、君の言っていたネットスケープの上場もあった。初日に株価が倍以上になったよ。……本当に、君の言った通りだった」
「山岸さんが、判断してくれたからです」
「最後の判断は私がした。だが、どこに向かうかは、全部君が決めた」
山岸は、ファイルを閉じて、俺の前に滑らせた。
「今日から、これは君のものだ。高野さんとの約束は、果たした」
俺は、ファイルを受け取った。
ずしりと重かった。
五億二千万円。
その数字の向こうに、祖父の几帳面な方眼紙が見えた気がした。
「山岸さん。一つ、お願いがあります」
「なんだい」
「会社を作ります。投資の会社です。山岸さんに、一緒にやってほしいんです」
山岸は、眼鏡の奥の目を丸くした。
「……私と?」
「はい。俺は、まだ二十歳の学生です。会社の代表になっても、誰も信用しない。でも、山岸さんなら、証券業界に四十年近くいた人だ。信用がある」
「代表を、私に?」
「最初の数年だけ。俺が一人前になるまで。……祖父が、言っていたんです。全部を一人で背負うな、頼れって」
山岸は、しばらく黙っていた。
やがて、眼鏡を外して、目頭を押さえた。
「――高野さんは、本当に、最後まで人使いが荒い」
山岸は、眼鏡をかけ直して、笑った。
「分かった。やろう。会社の名前は?」
俺は、決めていた。
祖父が亡くなった日から、ずっと。
「天城キャピタル」
五月。
東京・霞が関の、あの古い喫茶店。
この喫茶店で向かい合うのは、六年ぶりだった。
黒崎は、少しだけ老けていた。
銀縁眼鏡は同じだが、髪には白いものが混じり、灰皿の吸い殻は四本に増えていた。
「二十歳になったそうだな。おめでとう」
「ありがとうございます」
「それから、会社を作ったと聞いた。天城キャピタル。……高野さんの孫が、投資会社か。省内でも、少し話題になっている」
黒崎は、新しい煙草に火をつけた。
「今年の初めの国会は、ひどいものだった。住専の処理に、六千八百五十億円の税金を使うことになった。国民からは袋叩きだ」
「住宅金融専門会社……バブルの時に、土地にたくさん貸し込んだ会社ですね」
「そうだ。だが、本当の問題は、住専ではない」
黒崎は、鞄から一枚の書類を取り出した。
「六年前、君が言った救急車の話を覚えているか。総量規制の通達に、一行だけ入れさせた、四半期ごとの報告」
「はい」
「あの報告のおかげで、大蔵省は、他のどの時期よりも早く、銀行の本当の傷の深さを掴めた。省内には、その数字を見て、早めに手を打つべきだと考える人間が、少しずつ増えてきた」
黒崎は、書類を俺の前に置いた。
北海道拓殖銀行。
不良債権の推移を示す、手書きのグラフだった。
祖父の方眼紙と、同じ書き方だった。
「君が六年前に言った通りだ。拓銀は、危ない。このままなら、あと一年か二年で、もたなくなる」
俺は、グラフを見つめた。
一九九七年十一月。
前世の拓銀が破綻した日まで、あと一年半。
「省内で、一つの案が出ている。拓銀が自力で立ち直れなくなる前に、別の銀行に、北海道の事業を引き継がせる。倒れてから慌てて受け皿を探すのではなく、倒れる前に、受け皿を用意しておく」
「……救急車ですね」
「そうだ。だが、問題がある」
黒崎は、煙を吐いた。
「受け皿になる銀行の、資本が足りない。それに、北海道の取引先の企業の多くが、拓銀と一緒に倒れかねない。国の金だけでは、全部は救えない」
黒崎は、まっすぐに俺を見た。
「天城くん。六年前、私は君に言ったな。『救急車の運転手を、十年後に一人探している』と」
「……はい」
「四年、早まった」
黒崎は、煙草を灰皿に押しつけた。
「天城キャピタルの金を、北海道に使ってほしい。拓銀と一緒に倒れかねない、技術を持った北海道の会社に。国が手を出せないところに、民間の救急車を走らせてほしいんだ」
喫茶店の中が、静まり返った。
五億二千万円。
それは、ロケットの会社を作るための金だった。
前世で、金が足りなくて夢が潰えた俺が、今度こそ手にした金だった。
それを、北海道の会社を救うために使う。
――全員は救えん。救える者を救え。
祖父の声が、聞こえた気がした。
――強くなれ。もっと大きな木になれ。そうすれば、残せる枝も増える。
「黒崎さん」
「……ああ」
「一つだけ、条件があります」
黒崎が、わずかに眉を上げた。
「救う会社は、俺が選びます。土地や株で儲けようとした会社ではなく、技術と人の腕で、物を作っている会社を。……祖父の、選び方です」
黒崎は、しばらく俺を見つめていた。
それから、六年前と同じ、疲れた、皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「高野さんの孫は、やはり、とんでもないな」
黒崎は、手を差し出した。
「契約成立だ。救急車の運転手くん」
その夜。
俺は、東京の下宿の小さな机で、二通の手紙を書いた。
一通目は、沙月に。
同じ東京にいるのだから、会って話せばいい。だが、これは、手紙で書きたかった。
『沙月へ
会社を作った。まだ投資の会社だけど、いつか、ロケットの会社も作る。
その時、一緒に来てほしい。
タカノ一号を、もう一度飛ばそう。
今度は、三百十八メートルじゃなくて、宇宙まで』
二通目は、モスクワへ。
『エレナ・ヴォルコワ様
二年前の手紙で、会社を作った時に、なぜあなただったのかを話す、とお約束しました。
会社を、作りました。
ロケットの会社は、まだ先です。ですが、その準備を始めます。
いつか、日本に来ていただけませんか。
その時に、必ず、すべてをお話しします』
二通の手紙を封筒に入れ、机の上に並べた。
窓の外に、東京の夜空が広がっている。
明るすぎて、星はほとんど見えない。
前世の最後の夜、俺はこれと同じ東京の空の下で、一人で死んだ。
もう一度ちゃんと星が見たかった、と思いながら。
今は、違う。
机の引き出しから、未来ノートを取り出した。
小学三年生の時に書き始めた、色あせた大学ノート。
一九九六年のページを開く。
前世の記憶では、この年に書くべきことは、ほとんどなかった。前世の俺は、北大の工学部で、ただ授業に出ていただけだった。
その余白に、俺は書いた。
『一九九六年四月十日 二十歳。天城キャピタル設立』
『一九九六年五月 黒崎さんと契約。救急車の運転手になる』
そして、一行空けて、もう一行。
『次の目標:一九九七年十一月。拓銀を、救急車で運ぶ』
ノートを閉じた。
窓の外で、東京の夜が、静かに更けていく。
どこか遠くで、救急車のサイレンが鳴っていた。




